渡邉大輔が論じる、ワールドビルディング時代の映像コンテンツとこれからの文化批評

渡邉大輔が論じる、ワールドビルディング時代の映像コンテンツとこれからの文化批評

今後の批評のあり方について

 重要なのはそのなかで、新しい世代、新しい読み手というものが、これまでにないような面白さや魅力を見つけていくということです。同時に批評においても、単純に作品が面白い/つまらない、良い/悪いという脊髄反射的なレビューではなく、新しい作品の背景にある大きな枠組みを語ることが求められ始めているように思います。そのなかで、このサイトの連載をまとめた宮台真司さんの『正義から享楽へ』や、菊地成孔さんの『菊地成孔の欧米休憩タイム』など、個別の作品を超えた論評ができる語り手の、厚めの本も読まれるような状況になってきているのかな、ということも感じています。

 とは言え、批評の現場においては、作家論に近いことも当然、依然として求められています。ただそこで、例えば、『キンプリ』(KING OF PRISM by PrettyRhythm)のような新しい作品を作家論で語るのは違う気がしますが、その一方でジム・ジャームッシュの『パターソン』のようなものを、ソーシャル時代の環境から読み解くというのも、どうも横滑りしているような感覚がある。

 ただ、ひとつ言えるのはワールドビルディングというコンセプトの話にも繋がりますが、第一にひとつの作品、画面が、それだけで完結してクオリティや作り手の創造性を評価できるという考え方や、第二に映画なりアニメなり、あるいはスクリーンなりテレビ画面なりといったひとつのジャンルやデバイスに特化した批評基軸が有効性を持たなくなってきているということです。やはりJ.J.エイブラムスを例に取るなら、彼は黒澤明やジョン・フォードのような創造性というより、二次創作的というか、オタク的な感覚で映画をつくっている印象があり、それをかつての大文字の巨匠と同じように論じてしまうと、その本質、面白さというものを見誤ってしまうでしょう。それは庵野秀明さんの『シン・ゴジラ』にも同じことが言えます。また、『悪女/AKUJO』のゲーム画面のようなオープニングや、全編デスクトップ上で展開する『アンフレンデッド』、多種多様なスタイルが混在する『ポプテピピック』などのコンテンツを、これまでの映画批評やアニメ批評の道具立てひとつで論じるのも無理がある。レオ・スタインバーグの美術批評用語(「他の批評基準」)をもじっていうなら、これからの文化批評は「複数の批評基準」が、個々の作品ごとにますます求められていくことになると思います。

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