『DIGGER/ディガー』はなぜ興行的に惨敗したのか イニャリトゥ監督の風刺の有効性を問う

 『バベル』(2006年)や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(2014年)、『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)などなど、カンヌ国際映画祭、アメリカのアカデミー賞を含め数々の世界的な賞を受賞してきた、メキシコ出身の監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。人間の極限的な感情に迫りながら、映画表現の限界に迫ろうとする野心的な映画作家である。

 そんな世界的監督が、スター俳優トム・クルーズとともに作り出した「風刺コメディ」が、問題作『DIGGER/ディガー』である。しかし、莫大な製作費や宣伝費をかけ、これほど注目を集めながら、アメリカの興行成績は、いまのところ大惨敗していて、そのこと自体も話題となっている。なぜ、このような状況に陥ったのだろうか。そして、この作品では何が描かれていたのかを、ここでは考察していきたい。

※本記事では、映画『DIGGER/ディガー』のストーリー展開や結末に触れています。

 本作『DIGGER/ディガー』のアイデアの端緒となったのは、北極圏での石油採掘事業であるという。多くの国がエネルギー資源問題に直面するなか、アメリカやロシア、ノルウェーなどの国々は、その手つかずの地で、石油を吸い上げようとしている。問題は、北極圏での事業計画が本格化した要因に、近年の地球温暖化による、北極圏での“氷山融解”という現象があるということ。だがそもそも地球温暖化の原因は、石油燃料などの燃焼をはじめとする“CO2(温室効果ガス)の大量排出”にある。

 そうやって北極の氷が失われ、海面上昇や気温の上昇、異常気象などが発生している原因が石油燃料にあるにもかかわらず、この状況を利用してまで、新たな石油を採掘しようとする。そんな事業家や国家の飽くなき欲求に、イニャリトゥ監督は衝撃を受けたのだという。こうして、悪しき資本家などが国家ぐるみで、地球環境を完全に不可逆的なものにしてしまう過程を描くことを思いついたのだ。

 そうした徹底的な利益の追求者として象徴化されたキャラクターが、ディガー・ロックウェルである。この人物は、祖父から続く石油ビジネスを引き継ぎ、北極圏に採掘施設を建造し、多大な利益を手にしている。だがある日、現地で大きなトラブルが発生。天然ガスが大量に噴出しているという連絡がくる。安全のために操業を止めるべきだという現地の声を、ディガーはさえぎる。彼は、自分にとって都合のいい情報しか耳にしたくないのだ。

 いつものように事態を放置した結果、採掘施設で大火災が起き、死傷者が出ているとディガーは聞かされる。それだけでなく、ヨーロッパ各地で大災害が発生、多数の犠牲者が生まれてしまうのだった。さらには大都市規模の氷山がアラスカに向かって流され、甚大な被害が出ることが予想されているという。採掘現場の必死のうったえを無視したディガーの選択が、ついに世界規模の“人災”に発展したのである。

 まさに人類の敵とでもいうようなディガーであるが、それを演じているかと思われたトム・クルーズは、じつは彼自身を演じているわけではなく、ディガーを演じる俳優カーティスを演じていたことが、劇中で明かされる。じつは、これまでの物語は全て演劇だったのである。観客は、いわゆる「劇中劇」を見せられていたのだ。

 しかしこの演劇、じつは作中世界の実話を基にしたものであることも分かってくる。つまり、われわれが“近未来”の出来事として見ていた本作のストーリーとは、さらに未来の話だったのであり、劇中劇として設定されていたものは、ディガーがやらかした過去をカリカチュアライズしたコメディであった。そうなってくると、「なんだ、舞台劇か」と、いったんは切れたわれわれ観客の緊迫感が、また戻ってくる。なぜなら舞台で描かれるあれこれは、作中世界の事実を伝えるものであり、実質的にディガーのストーリーそのものを見るのと、さほど変わらないからである。

 それにしても、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)で、ダニエル・デイ=ルイス演じた石油王をも想起させる、ディガーの飽くなき利益追求は、あまりにも悪びれてないことから、暗い快感すら呼び覚ますところがある。それが最も顕著に表現されたのが、彼が召喚されたEUの議会における演説シーンである。

 トム・クルーズは、類まれな運動神経を活かした作品が多く、娯楽映画のスーパースターというイメージが強いが、演技派としてもたびたび評価されてきた俳優だ。とくに、『ザ・エージェント』(1996年)、『マグノリア』(1999年)での、善良な役柄を超えた偏執的ともいえる演技、恐いほどエネルギッシュな口調とボディランゲージは、本作『DIGGER/ディガー』の演説シーンにそのまま活かされている。

 この演説こそ、現代社会の病理をそのまま映し出すものだ。ディガーは責任を追及され、自身の人生で最大のピンチに見舞われるも全く悪びれず、逆に自分を責める人々にこそ責任があると、糾弾を始めるのである。議会の人々はリベラルぶって環境破壊の責任を自分に問おうとするが、結局は石油などのエネルギーを利用して、便利な日常を送っているのではないかと。そうした利益に浴しておいて、責任を一人に背負わせようとするのは偽善であると。

関連記事