『Tシャツが乾くまで』安定と安心の境界線 他人だから見えた“充”松山ケンイチの真実
「悪いことはしてないけど、樹生に瀬尾さんのことは話しにくい。私と瀬尾さんの関係を理解してもらえる自信がない」
金曜ドラマ『Tシャツが乾くまで』(TBS系)第7話。ついに毎月第3金曜日に充とあずさがなぜ会っていたのか、その真相が語られた。けれど、明かされたのは単純な不倫関係ではなかった。だからこそ、むしろ咲子と樹生は深く傷つくことになる。恋愛感情ではない形で結ばれた充とあずさの間に、自分たちには入り込めない特別な信頼関係があったと知ったからだ。
あずさが残した日記には、樹生にこの関係を理解してもらえる自信がないと記されていた。そして充もまた、咲子に「わかってもらえる自信がなかった」と語る。パートナーである自分には話せなかったことを、別の誰かには話せていた。それを知れば、「自分はそこまで信頼されていなかったのか」と感じるのも無理はない。
ただ、この回を観ながら思った。私たちは普段から、ごく自然に「この話を誰にするか」というフィルターをかけながら人と付き合っているのではないか、と。この話ならあの人に。これはこの人には話さない。この人ならわかってくれそうだけれど、あの人にはきっと伝わらない。どれだけ親しい人であっても、すべてをフィルターなしで見せているとは限らない。
大切だからこそ話せないこともある。傷つけたくないから、嫌われたくないから、これからも一緒にいたいから。見せたくない弱さや過去があることと、その人を大切に思っていることは、必ずしも矛盾しないのだ。
充は“ぶつかっても続く人間関係”を知らなかった
咲子と充の間には、「言いたいことは言う。言いたくないことは言わなくてもいい」という約束があった。その約束は、この10年、二人の平穏な日々を守ってきたのだと思う。相手が見せたくないものを無理に見ようとしない。聞かれたくないことを追及しない。相手の領域に踏み込みすぎない。それは二人なりの気遣いで、そのおかげで10年も充は逃げずに済んだ。だから、その約束そのものが間違っていたとは思わない。
ただ今回の二人を見ていると、傷つけないようにすることには慣れていたけれど、傷つけてしまったあとにどう向き合えばいいのか、わからなくなってしまったようにも見えた。大切だから傷つけないことと、大切だから傷つけたあとも関係を続けていくこと。その二つは、似ているようで少し違う。そして、この違いは充が育ってきた家族との関係にもつながっているように思う。
充はこれまで、「誰かとぶつかり、そのあと関係をつなぎ直す」という経験を十分に持てなかった。実の親に話しかけても、注意を引こうとしても、望んだ反応が返ってこない。怒られることや言い合うことよりも前に、こちらの働きかけそのものが届かない。
一方で咲子も、実の親との関係には難しさを抱えている。けれど咲子の場合は、むしろ干渉されるからこそ何度もぶつかってきた。電話にあえて出ないなど、逃げることもあった。それでも関係は続いている。
充と咲子は同じように「親とうまくいっていない」と言えても、その中身はまったく違う。咲子は、ぶつかっても関係が終わらないことを知っている。充は、そもそもぶつかるための反応すら返ってこなかった。だから咲子にとっては「言ってくれればよかった」ことが、充にとっては「言ってもきっと届かない」ことになってしまったのかもしれない。
「安定」が「安心」とは限らない
充の失踪癖について考えると、それは単に一人になりたいということではなく、「自分はいつでもここから出られる」と確かめるための行為だったのではないかと思う。充は、愛してくれない親のもとで育った。それでも子どもの頃は、自分の意思だけでその場所を離れることはできない。居心地が悪くても、反応を返してもらえなくても、そこにいるしかなかった。だから大人になった充にとって、「つらくなったら逃げられる」という感覚そのものが安心だったのではないか。
一般的には、安定することは幸せなことだと考えられている。家を持つこと。帰る場所が決まること。長く続く関係を築くこと。それは多くの人にとって、安心や幸福の象徴だ。だからこそ、その安定を前に逃げたくなる充の感覚は、理解されにくい。「ここにずっといられる」ことよりも、「ここからいつでも出られる」ことのほうが救われるという人もいるということを、どれだけの人が否定や疑問を持たずにただ聞くことができるだろうか。
あずさにはそれができた。それは、あずさが充の話を聞いても、解決しようとする必要も、充の人生を立て直そうとする必要もない関係性だったから。ただ、充がそう感じてきたということを、そのまま聞くことができた。一方で咲子には、それが難しい。充が苦しんでいたと知ることは、咲子にとって夫の過去を知るだけではない。それまで二人で過ごしてきた10年を振り返り、「自分には何かできたのではないか」「何かを見落としていたのではないか」と考えることでもある。
だから「私はどうすればよかったの?」という言葉が出る。これは、あずさのほうが充を理解していたという話ではない。咲子は充の人生の当事者で、あずさは最初はそうではなかった。その距離の違いが、充の口を開かせたのだと思う。
そして、あずさもまた実の親がそもそもいない家庭で育ってきた。一見すると、親から得られなかったものがあるという点では、充と近いようにも見えるからかもしれない。けれど、親がいないことと、そこにいる親から反応を返してもらえないことは違う。
あずさはその違いを、安易に「私も同じだからわかる」と自分の痛みに置き換えたり、寄り添ったりしなかった。ただ、充のものとして聞いていた。それが、二人の間に生まれた信頼の始まりだったのではないだろうか。