『ブルーロック』の実写映画としての革新性 観客を沸かしたストイックな職人的手法
『週刊少年マガジン』の人気サッカー漫画が、同名の実写作品、映画『ブルーロック』として公開された。筆者は新宿の映画館で鑑賞したが、満員かつ観客の熱気に圧倒されるほどの盛況ぶりだった。
劇場のライトが点いた瞬間、「めっちゃ良かったねー」と興奮する若者たち、「なぎ、凪がかっこよかった!」とはしゃぐ若い女子、頼まれてもいないのに原作の先の展開をネタバレしだす男子小学生などなど、とくに若い層の作品へのボルテージの高さが目立ち、成功を確信させるものがあった。
さて、そんな本作『ブルーロック』の革新性とはどこにあったのか。ここでは、作品の背景にある哲学や製作体制にフォーカスすることによって、ゴールのカタルシスを生み出したものが何だったのかをあぶり出していきたい。
※本記事では、『ブルーロック』のストーリー展開を一部明かしています
物語の起点となるのは、W杯出場常連国となった日本サッカー界による、さらに世界の強豪と肩を並べるために、荒唐無稽ともいえる若手の育成に着手するという決定だ。300人の高校生FW(フォワード)たちのみを全国から集め、“青い監獄”「ブルーロック」に閉じ込め、長期間の集中特訓と定期的な選抜テストを受けさせるというもの。主人公の潔世一(高橋文哉)をはじめ、選手たちは脱落すれば“一生日本代表に入る資格を失う”という極限状態のなか、生き残りをかけて自身の力を“覚醒”させていく。
日本のサッカー漫画の金字塔といえば、言わずと知れた『キャプテン翼』シリーズである。世界的に人気のある、この作品では、「翼よ、MF(ミッドフィルダー)になれ」という象徴的なメッセージに象徴されるように、中盤のポジションこそがサッカー競技の華であるという意識を、子どもたちに植えつけたところがある。原作者の高橋陽一は、自身の作品が生み出した風潮のバランスを取ることも念頭に置いて、FWが活躍する『ハングリーハート WILD STRIKER』を描いたほどだった。
その意味で『ブルーロック』は、ある意味で『キャプテン翼』という巨人の哲学のアンチテーゼとして生み出されたところもあるだろう。組織的なパスサッカーで敵陣の守備を崩したり、一閃のカウンターで点を決めることは、サッカーのゴールにおける重要なオプションであるが、今回のW杯でノルウェー代表のアーリング・ハーランドが大活躍したことがチーム躍進の原動力になったように、絶対的なFWが個の力で安定的に得点を決めることが、どれほどチームを強くするかという事実を、われわれは目の当たりにしたばかりである。
原作漫画の画期的な部分は、このFW待望論に加えて、“エゴイスト”としての価値観を重視するといった部分だった。多くの場合、チームスポーツ漫画は、友情や助け合いによって勝利をつかむといったストーリーがお決まりだった。しかしここでは、チームスポーツにもかかわらず突出した“自分本位”な姿勢こそが必要だというのである。
だが自分本位を貫くには、リスクも不可欠である。鬼ごっこを模した最初のセレクションにおいて、潔世一と蜂楽廻(櫻井海音)による、現時点で最もランキングが高い選手を狙い撃つという選択は、長いスパンで考えれば生き残りのために最も合理的な作戦であり、作品のエゴイズムを象徴する合理的思考であるといえよう。ブルーロックのコーチ・絵心甚八(窪田正孝)は、そうした強い勝ち残りへの意志と具体的な方策をこそ高く評価する。
こうした、ある局面のなかでそれぞれの選手が最もゴールを生む選択を思考し続けるというプレー哲学には、作品として先例がある。村上龍の小説『悪魔のパス天使のゴール』である。これは、執筆当時イタリアサッカーリーグで、日本の選手として未曾有の活躍をしていた中田英寿をモデルにしたキャラクターを用い、そのプレースタイルを賞賛する内容だった。従来の日本人的、東洋的な集団に奉仕する美徳ではなく、ヨーロッパ、西洋型の個人主義的思考の獲得が、そこでは重要となる。
その話は、サッカーの決定力のみに収まるものではない。村上龍は、“島国根性”に代表される日本の抑圧的な圧力や、リスクを取ることを嫌い、“空気を読みすぎる”国民性を長い間唾棄していた。そして、集団的な伝統や先例主義が、個の発想をいかに潰すかという点を批判していたのである。そんなときに、走りながら常に首を左右に振り続けパスコースを探すという、人間離れした精密機械のような中田の合理的なプレースタイルに村上は衝撃を受けた。そうしたプレーによりヨーロッパで結果を出す中田に、村上は日本的情緒を逸脱した、経済的な低迷に直面する日本の突破口までをも見出していたのである。