『風、薫る』はなぜりんを“頼りない主人公”にしたのか “未熟さ”が持つ意味を考える

 りん(見上愛)、看護婦失格? NHK連続テレビ小説『風、薫る』第15週「差し出せぬ手」(演出:松本仁志)は衝撃の急展開となった。

 大腸がんで入院した患者・山本(本田大輔)の死が、りんに大きな影響を与える。がんが再発した山本は、自分が死んだときテイ(伊勢佳世)が後悔に苛まれないように、死ぬ前に牛鍋を食べて満足したという嘘をつく。それに協力を頼まれたりんは悩んだ末、引き受けてしまう。山本の家に帰り、牛鍋を食べて来たと言い、一晩久しぶりに夫婦、水入らずで過ごす。明け方、病院に戻るが、山本の容態が激変し苦しみながら息を引き取った。

 衰弱している患者を病院から無断で連れ出したのだから、りんは相当の責任を問われるはずだった。ところが幹部は病院の評判が落ちるのを気にして事件を曖昧にする。りんはこれまでと同じように働き続けるが、心は沈んだまま。そのせいで脈を取ったり包帯を巻いたりする作業ができなくなってしまう。

 最後に「助けて」と言って亡くなっていった山本。家に戻る前の「助けて」は妻へ嘘をつくのを「助けて」ほしいという意味だったが、最後の「助けて」の意味はなんだったのかーー。決して出ない答えにりんは苦しむ。一方、直美(上坂樹里)は長屋のトヨ(松金よね子)の容態が急変し、慌てて長屋へ向かう。りんも同行し、病人の死に向き合う直美の姿を目の当たりにする。

 りんと直美、それぞれが病人の死と向き合い、そのときどうするか、ふたりの違いが描かれた。それによって彼女たちの精神的な距離が残酷なまでに遠く離れていることが歴然となる。トヨは体調が悪くてもお金がないので病院で診てもらえない。直美がお金を出すと申し出ても拒否する。

 病院にいけばよくなったかもしれない。だがトヨは直美や長屋のみんなに看取られて亡くなる。直美はトヨが息を引き取るまで優しく話しかけながらずっと手を握っていた。チュウ(若林時英)はトヨの足を揉む。身内はいないが、長屋の仲間たちとおしゃべりしながら穏やかに息を引き取ったので、悪くない最期であったことだろう。それに比べて、りんと山本の場合は穏やかではなかった。山本はテイと会えたときは安定していたが、死ぬ間際はかなり心が乱れていたように描写されている。テイに会って未練を抱いてしまったのか。夫の死を知って病院に駆けつけたテイもかなり動揺していた。りんのことを訴えるようなことはしなかったが、客観的に見てあまりいいお別れの仕方ではなかった。もちろんりんだって良かれと思ってやったことではあるのだが、判断ミスは否めない。病院に戻らず、あのままテイの元で亡くなれば、悲しいけれどいい形だったのではないか。

「いっそこのまま、あんたと逝っちまうのも悪かないけどね」

「俺はごめんだな。おまえが生きててくれりゃあ、あの世からおまえを眺めて楽しめる」

 夫婦の会話は情緒があった。りんと直美、2通りのお別れを見ると、何事も終わりが肝心な気がする。最期に見る風景、最期に交わす言葉がいかに安らかなものであるか。そのために誰もが努力するべきなのではないだろうか、なんてことを思うのだ。

 でもドラマがそう語っているわけではない。勝手に筆者が思うことである。『風、薫る』はりんと直美たちが恩師・バーンズ(エマ・ハワード)から「看護とは何か」を問われ、簡単に答えを教えてもらうのではなく、問い続けることであることを学んでいる。視聴者も看護とは何かがわからないし、死を前にした患者にどう接するのが最適なのか、ドラマは答えてくれない。ボブ・ディランの「風に吹かれて」の歌詞「答えは風に吹かれている」のように。ドラマを観ながら、視聴者自身が「自分だったらどうするか」を考え続けないとならない。原案である『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著、中央公論新社)ではモデルの大関和はりんのようなミスはしていない。病院と揉めるのだが、それは看護婦の待遇改善を求めたためだ。理想を追求する社会性のある人として大関和のことが記述されている。原案の大関和の姿を追えば、確たる信念という回答が得られる。

関連記事