『急に具合が悪くなる』が描く“確率”という運命論への抵抗 濱口竜介が映した“関係性”

 哲学者の宮野真生子と、医療人類学者の磯野真穂による共著『急に具合が悪くなる』は、宮野ががんの転移を告げられた直後から始まる往復書簡集だ。

 2人のやり取りの根底にあるのは、確率や効率ばかりがもてはやされる現代のシステムに対する、大きな疑問である。書籍の中で磯野は、医師から告げられる「〇〇パーセントの確率」といった数値に欺瞞を感じると記している。10パーセントであれ90パーセントであれ、事象は常に「起こる」か「起こらない」かのどちらかでしかない。

 それなのに、確率という数字は、まるであらかじめ人生の分岐ルートが決まっていて、自分を俯瞰してコントロールできるかのような錯覚を抱かせる。「急に具合が悪くなる」という現実の前に立たされたとき、我々は分岐ルートを選ぶゲームをしているのではなく、後戻りできない一本の道を手探りで歩いているに過ぎないのだ。

 リスクを避けて効率よく生きることが、本当に正しいのだろうか。この往復書簡は、確率という名の運命論に縛られず、予測不可能な今をどう生きるかという切実な模索の記録でもある。そして死という現実を前にしても、2人の対話にはユーモアがあり、知的なスリリングさが決して失われない。そして言葉を交わすうちに、2人は「魂の分け合い」と呼ぶしかない、深い関係性へとたどり着く。

映画『急に具合が悪くなる』90秒本予告

 この往復書簡に深く心を動かされたのが、濱口竜介監督だ。監督は磯野真穂との対談の中で、「今まで他の本では体験したことがないような人間同士の出会い、名付けようのない関係性がそこにあった。自分もずっとそういうものを追いかけてきた気持ちもあり、この本の核にあるものを映画に移し替えたいと思いました」(※)と語っている。だが、パソコンに向かって文字を打つ2人のやり取りをそのまま映像にしても、映画にはならない。そこで監督が選んだのは、舞台をフランスに移し、生身の身体を伴う全く別の物語として再構築するという、大胆な飛躍だった。

 映画『急に具合が悪くなる』(2026年)の舞台は、パリ郊外の介護施設「自由の庭」。施設長のマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、入居者を一人の人間として向き合い、転倒のリスクを冒してでも自分の足で立つことを目指す、ユマニチュードというケアを導入しようと奮闘している。しかし現場には、常にリスクとコストという資本主義の壁が立ちはだかる。寝たきりの入居者の方が補助金が多く出るというシステムのいびつさや、効率を求めるスタッフとの対立。マリー=ルーが直面しているのは、人間を確率の束として処理し、ひとりひとりの生きる可能性を狭めてしまう社会構造そのものだ。

 そんな息苦しいシステムから抜け出すきっかけとなるのが、末期がんを患う日本の舞台演出家・森崎真理(岡本多緒)との偶然の出会いである。マリが手掛ける前衛演劇の舞台には、唯一の役者である清宮五郎(長塚京三)のほかに、重度の自閉スペクトラム症を抱える青年・智樹(黒崎煌代)が、予測できないタイミングで乱入してくる。

 普通なら、乱入した智樹はエラーとして排除されるだろう。いや、そもそも不測の事態が起こる確率を0パーセントにするべく、徹底したリスク管理が行われることだろう。しかし、マリと五郎は彼を拒まない。突発的な行動を受け入れ、その都度、即興でルールを変えていく。

 確率によるコントロールを手放し、予測できない他者を受け入れるという姿勢は、マリー=ルーが目指すユマニチュードの理念と響き合う。そして同時に、「末期がん患者」「余命〇ヶ月」という確率のラベルから逃れ、ただの一人の人間であろうとするマリ自身の切実な抵抗とも、美しく重なり合っていくのだ。

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