『今夜、世界からこの恋が消えても』韓国版は日本版とは別もの? 違いが生まれた背景とは
日本版『セカコイ』は、中国や韓国でも大ヒットした映画である。とくに韓国では、当時“日本映画史上3番目”の興収記録を打ち立てるほどのブームを起こしていた。主演した「なにわ男子」の道枝駿佑が舞台挨拶のために韓国に渡航した際には、大勢の道枝ファンが詰めかけた。原作小説もヒットし、ミュージカル舞台版も上演されている。
それを考えれば、今回の韓国での『セカコイ』リメイクは、そんな大ヒットを前提として企画が成立したものだと理解することができる。つまり、韓国版でミステリー要素が除外されたのは、そもそも韓国の観客の多くが『セカコイ』のストーリーを知っているからであり、あえて謎を提示するプロセスをスキップしたと考えるのが自然だろう。
そんな大人気作品のリメイクとして、韓国版はキャスティングにも異なるアプローチをとっている。まず、道枝が演じた役柄を務めたチュ・ヨンウ。彼はどことなく頼りなさを感じさせ、母性本能をくすぐる部分のあった中性的な道枝とは異なり、甘いマスクながらたくましい肉体を持ち、より能動的に“姫”を守る“騎士”や“王子様”のような、女子にとってより理想化された姿で登場する。高校生役を演じるには年齢も25歳前後で、かなりしっかりした大人の安定感がある。
こうした“男性像”の好みの違いというのは、さまざまな例外がありながらも、日本と韓国の間の文化的傾向を指し示しているといっても、それほど過言ではないだろう。日本における韓国の男性俳優を好きなファンは、そうした“王子様”としての男性像に惹かれる場合が少なくないのではないか。逆に日本の男性俳優に惹かれる韓国側のファンは、そうした極度に理想化された男性像からはやや外れた、より等身大に近いナチュラルな魅力を支持しているのかもしれない。
そういった両国の漠然とした差異があるなかで、韓国リメイク版では、無理に道枝駿佑や、大人っぽい理知的な雰囲気を備えた、意志の強さを感じる福本莉子のようなタイプを韓国キャストで再現するのではなく、あえてチュ・ヨンウとシン・シアという、強い男とあどけなさの残る女の子といった、全く印象の異なる関係性を提示している。これは、同じ路線では、すでに伝説化した作品と勝負するのは難しいという判断だったのだと考えられる。
そのことで、本作は日本版とはまた異なるカップルの物語を描くことができたといえるだろう。ヒロインを守る彼が、常に強く誠実に女性をサポートする。それは、韓国におけるジェンダーロール(性別的な役割)の強固さを感じられる点ではあるものの、一方ではレディーファーストの精神の反映だとも言えるかもしれない。
ヒロインを演じたシン・シアは、撮影当時は26歳前後であったと思われるが、当時の福本よりも年下に見えることには驚かされる。このように、韓国版はキャスティングの時点で演技力の見込める年上の俳優を起用することで、ドラマの強度を高めるといった工夫も見られるのだ。
また、舞台となった麗水市は、おそらく日本版の舞台であった、藤沢市からの海の眺めのイメージが理由になっているのだろう。麗水といえば、豊臣秀吉による文禄・慶長の役を克服した烈士たちが眠る土地柄でもある。本作の歴史の授業のワンシーンにおいて、この慶長の役について語られているように、土地の“記憶”は、歴史というかたちで数百年を経ても残り続ける。まさに、ソユンが残したメモが、明日の自分への記憶を伝えるように。
韓国版である本作は、これまで述べたように、日本版のヒットという前提があることで成立し、その内容を前提としたことで、異なるアプローチが可能になった作品だといえる。なので、独立した作品がもう一つあるというよりは、『セカコイ』という現象を、一段深く、あるいは広く楽しむための一作だといえるかもしれない。
とはいえ、それが双方の国の文化に親しみを与え合うという意味で、とくに若い世代にポジティブな影響を与えるだろうことは、重要な話なのではないだろうか。歴史的な事情から、政治的にしばしば不協和が生まれる両国ではあるが、映画の力がそんな関係の改善に寄与するのならば、これ以上素晴らしいことはない。
そして、ある種のファンタジックな恋愛という、綺麗なフィルターがかけられ過ぎているきらいはあるものの、こうした病気と闘う人が存在することについても、理解を広め深めるといった役割を、『セカコイ』は担っている部分がある。病気を設定に利用していることへの不謹慎さを批判する意見も、当然認められるべきではある。一方で、ヒロインと同じような悩みを持つ一部の人々が、こうした美しい物語によって力づけられる権利があることも、また確かなことだ。
■配信情報
Netflix映画『今夜、世界からこの恋が消えても』
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