2025年の年間ベスト企画
荻野洋一の「2025年 年間ベスト映画TOP10」 ディストピア化した世界にとっての救いの接吻
6位の横浜聡子『海辺へ行く道』と7位のフランシス・フォード・コッポラ『メガロポリス』は、じつのところ非常によく似た作品だ。横浜もコッポラも救いようのないほど自己中心的な作風を持つ天才監督であり、両者の脳みその皺を写したレントゲン写真として『海辺へ行く道』と『メガロポリス』がある。「滅ぶよ、滅ぶよ」と何十年間も警告され続けながら、いかがわしく延命し続ける映画芸術なるもののDNAには、横浜やコッポラのような理不尽なほどのわがままさが必須なのではないか。
8位『けものがいる』と9位『ミゼリコルディア』は共にフランス映画。ベルトラン・ボネロ、そしてアラン・ギロディ、この2人の映画作家を私が愛してやまない理由は、彼らが共に、あの偉大なるルキノ・ヴィスコンティの精神的嫡子だからである。前者はヴィスコンティの貴族的デカダンスを、後者はヴィスコンティ的クィアネスを体現しており、もうひとりのヴィスコンティの嫡子であるカタルーニャの映画作家アルベルト・セラの新作『孤独の午後』が第37回東京国際映画祭でアジア初上映されたきり、日本で依然として一般公開に至らないのは本当に残念である。もし公開されていたなら、まちがいなく2025年の1位にしていた。
10位『あかるい光の中で』はApple TV独占配信であるため、知る人は多くないかもしれない。アメリカでカリスマ的な支持を受けるレズビアン詩人カップルの愛の生活と死別までの、残り少ない時間をカメラに収めたドキュメンタリー。限られた時間の刻みを、彼女たちはまるでドラマヒロインのように生ききる。
こうした〈限られた時間の刻み〉こそ、映画という表現ジャンルの本質を指し示してはいないだろうか? ディストピア化が進行した世界で、そして自由と希望が限定化されていくはざまで、映画が指し示す処方箋を、私たちはポイ捨てすべきではないのである。映画が私たちの額と唇に寄せてくれる〈救いの接吻〉を、2026年も全神経を集中させて受け止めていきたい。