『星と月は天の穴』は女性たちの人生の物語 綾野剛だから成立した色気のある滑稽さ
つまり、本作で描かれるのは、「作家が構想し、執筆する物語」を含めた1人の作家の日常であり、現実そのものというよりは、あくまで矢添の目を通した世界の姿なのである。
そのため、全編モノクロームで綴られた本作の世界の中で、彼が一際目を奪われたもののみが、色を持つことができる。例えば矢添が僅かに「欲情を覚えた」皿の上に乗ったサーモンが持つ鮮やかなピンク色は、やがて彼が出会う女性・紀子(咲耶)の「興奮すると色が変わる」らしい「盲腸の手術の跡」の、ぼんやりと浮かび上がる赤色に繋がる。あるいは、初めて会った時の紀子の肩についていた赤い糸、切手を貼るために少年が少しだけ出した舌の赤さといった、日常にちらばる美しさ。そして時に、B子(岬あかり)と娼館「乗馬倶楽部」の女(MINAMO)の口紅の赤さが、Aと矢添を翻弄する。抑制されたモノクロームの光景が、本作が1969年という過去の話であることを強調しているのだとしたら、矢添という1人の男が目を奪われた美しいもののみが色を失っていないということが物語る永遠性は、観客がいる現在という地点から見た過去の、失われることのない輝きとなって、観客の心をいつまでも離さない。
本作は、矢添の話である。同時に、矢添を取り巻く女性たちの強さの話である。それは吉行淳之介の原作と本作の差異であるとも言えるだろう。原作では『星と月は天の穴』という言葉を思いつくのは矢添自身であるが、本作において『星と月は天の穴』という言葉を最初に発するのは紀子であり、それを打ち消すのもまた紀子である。紀子も、千枝子も、かつての矢添の妻も、女性たちはブランコを漕ぐ。「空まで舞いあがってしまうほど強く」大きくブランコを漕ぐ。そして、自分で選んだ未来に向かって、歩いていくのだ。それは時に、矢添の予想を遥かに超えていて、彼はいつも彼女たちの決断に従うばかりだ。だからこれは、矢添という作家の目を通した、女性たちの人生の物語である。
■公開情報
『星と月は天の穴』
テアトル新宿ほか全国公開中
出演:綾野剛、咲耶、岬あかり、吉岡睦雄、MINAMO、原一男、柄本佑、宮下順子、田中麗奈
脚本・監督:荒井晴彦
原作:吉行淳之介『星と月は天の穴』(講談社文芸文庫)
撮影:川上皓市、新家子美穂
照明:川井稔
録音:深田晃
美術:原田恭明
装飾:寺尾淳
編集:洲﨑千恵子
音楽:下田逸郎
主題歌:松井文「いちどだけ」ほか
写真:野村佐紀子、松山仁
製作・配給:ハピネットファントム・スタジオ
レイティング:R18+
©2025「星と月は天の穴」製作委員会
公式サイト:https://happinet-phantom.com/hoshitsuki_film/