『爆弾』の面白さに「ありがとう!」 “爆発”から感じた「生半可な作品にはしない」覚悟

 「邦画がつまらない」という雑なイメージは過去のものになりつつある。少なくとも2025年の邦画は、ちょっと面白い作品が多すぎてビックリするレベルだ。筆者は暴力やアクション、ディザスターといった人が死んだりする映画がとても好きなのだが、そのような嗜好でも大満足な2025年である。そんな筆者がついには「ありがとう」という無垢な感謝が胸に浮かんだ。それが10月31日に公開されたサスペンス映画『爆弾』である。

 映画は何事も爆破するに越したことはない。人が巻き込まれればなおさらだ。映画館に君臨する王の一角であるコナン映画が毎年執拗に過度な爆破を繰り返すことからもそれが証明されている。そして、本作のタイトルはなんと『爆弾』。いいタイトルだと思う。簡潔で、洗練されている。おまけにほぼ確実に爆発しそうだ。こういうミニマルさはものすごく印象に残る。

 実際、製作陣も明らかに『爆弾』というタイトルのインパクトを重要視しており、ポスタービジュアルの中にはキャスト陣を遠くに置いて「爆弾」という表記をデカデカと前面に押し出しているものがある。「邦画のポスターといえばブロッコリー!」といったイメージも割と古い気がするが、それでもキャスト陣より「爆弾」という単語を印象づけるビジュアルは、タイトルそれ自体への自信を伺わせる。

 だからこそこういう不安も浮かぶ。もし、このタイトルで爆発の腰が引けていたらどうしようと。

 そのような不安は冒頭から吹き飛ばされる。佐藤二朗演じるスズキタゴサクの不可解な言動と秋葉原のカットバック。そして炸裂する爆弾。吹き飛ぶ人々。2025年、もはや邦画を舐めてかかると痛い目を見る。そういう油断ならぬ時代だが、それでも『爆弾』の冒頭には姿勢を正された。

 正直、いくら『爆弾』というタイトルとはいえ初手の爆発は当たり障りのない場所を爆破して「これは、始まりに過ぎない」といったヌルいことを抜かす可能性も、正直頭に過っていた。その後も特に人が死なない爆破ばかりで、緊張感に欠ける展開が続き……主人公の恋人とかが爆破に巻き込まれそうになったりで……最後は事件現場に救急車とパトカーが駆け付けて被害者に毛布をかけたりしてカメラが空にパンして終わる。そのような可能性も全然あったと思う。

 だが『爆弾』は人が行き交う秋葉原、その象徴であるラジオ会館を爆破する。その鮮烈な冒頭に心を奪われた。同時に「生半可な作品にはしない」という覚悟を受け取った。本作を観て改めて思ったのだけど、やはり爆発は人を吹き飛ばしてなんぼだ。『007 スペクター』(2015年)の爆発は映画史上最大の爆発としてギネス世界記録に認定されたが、遠景に映し出される大規模な爆発は真に迫る瞬間はなに一つなく、NHKのニュース番組でどこかの町内会が挑戦した「うどんの長さ世界一」の映像を眺めているような気分になった。

 「人が吹き飛ぶ」という点において映画『爆弾』は質、量ともに一級品だ。全編にわたって人がポンポンとエラい勢いで吹き飛ぶ。人体も嫌な感じに損壊しており、時には切断された四肢の断面もしっかり映してくれてうれしい。こんな感じで、本作は「爆弾」をタイトルにした矜持ーー爆発を描くことへのリスペクトを感じる。爆発とは過激で苛烈で、人の命を唐突に奪う鮮烈なものなのだ。そういうことがしっかり描かれている。

 だが『爆弾』のトロの部分は爆発それ自体ではない。東京各所に仕掛けられた時限爆弾。警察の大規模捜査。壮大な出来事がやがてミニマルな取調室での会話劇へと収束していく。それこそが本作のトロである。小さくて息が詰まるような取調室で、三人の捜査官とスズキタゴサクは己の推理と心理をぶつけ合う。言ってしまえば『爆弾』は対決の映画である。本作は拳の替わりに推理と舌鋒をぶつけ合うが、捜査官と容疑者がサシで向かい合う取調室はまさに決闘場であり「このままでは爆弾が爆発してしまうぞ」以上にヒリついた緊張感を与える。

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