『ボージャック・ホースマン』クリエイター新作 『長くて短くて、短くて長い』の文学的価値
ユダヤ系の独特なイベントとして、光の祭日「ハヌカ」や、割礼式「ブリット・ミラー」などが存在するが、本シリーズの第1話に登場するのが、「バル・ミツヴァ」と呼ばれる成人式である。シュウーパー家の、他の子と歳の離れた、なかなか精神的に成長できない次男ヨシのためにホールを借りきって、家族や親族などによって盛大に祝われるのである。
そんなイベントに駆けつけた長男アヴィは、ガールフレンドのジェンを家族に紹介するために連れてくるが、シュウーパー家の面々の無遠慮な態度とマシンガントークに、ジェンはたじたじになる。さらには、「バル・ミツヴァ」でトラブルメーカーのバリーおじさんと一家のいさかいが起こり、板挟みになってしまう。このエピソードをはじめとして、長女シーラの恋人ケンドラなど、非ユダヤ人の登場人物が、慣れないユダヤ系の文化に翻弄される点があるところは、多くの視聴者にユダヤ人についての理解をうながす部分となっている。
年代が戻ったり進んだり、舞台となる時代が変遷することで、視聴者は混乱する部分もあるだろう。見た目や境遇が変化し、それぞれの関係性が変わっていたりもするので、それを頭で補完しながら観ることになるのである。だから、一話一話集中する必要があり、『ボージャック・ホースマン』よりも見応えがある。しかし、そんなエピソードの途中で決定的な事実が判明する。家族の一人が途中からいなくなってしまうのである。
とはいえ、そんな悲痛な運命が判明してからも、エピソードが逆戻りすることで、当たり前ではあるが、その人物は涼しい顔をして再登場する。つまり、この時制が複雑に前後するアニメシリーズにおいて、死という要素に絶対的な力はないのかもしれない。
筆者も、ときどきこのアニメの構造と似たようなことを、自分の人生に当てはめて考えるときがあった。例えば、人は一度眠って目を覚ますと、人生のいろいろな一日にジャンプできるのではないかという考えだ。一度眠って起きてしまえば、どの時代であれ先の時代の自分の記憶は消去され、その日、一日を、いろいろな歳、それぞれの時代の環境で味わうことができるのである。なぜ、このような荒唐無稽なことを考えるのかといえば、それは“時間”や“未来”に対して、恐怖をおぼえているからである。
いつか訪れる死や、病気や怪我、仕事が無くなる不安や、老化や老後の生活などなど、未来には懸念事項がたっぷりあり、時間が経てば経つほど、状況が悪化しがちだったり、身体は弱り、残り時間が少なくなってくるのである。しかし前述したように、時間が必ずしも行儀良く未来へだけ進むものでなく、いろいろな時代にジャンプしているのだとすれば、そういった恐怖も緩和されるのではないだろうか。
『ボージャック・ホースマン』の終盤のエピソードでは、人生を鉄道の駅から駅への旅に例えている。そこで、ある登場人物は、車窓から見える景色を楽しまなかったことを深く後悔する。人生において自分の目的を達成することは重要なことだろう。しかしそのために、人生のなかで訪れる一つひとつの瞬間を楽しむことができないというのは、非常にもったいないことなのではないだろうか。
本シリーズにおける、順不同の時間のジャンプというのは、そんな『ボージャック・ホースマン』が投げかけた人生の問題について、一つの解答を与えているといえないだろうか。時間というものを、常に未来へと流れていくものだとして、先の目標だけを見ていくのではなく、現在感じている時間や状況を、独立した“いま”だと捉え、その瞬間に向き合うという感覚。まさに本シリーズのように、それぞれの時代に魅力があり、そのときの立場でそれを味わってやればいい。どうせ、いまの時間もまた、すぐに過去になり、未来もまたいつか過去になるのだから。
こういった、“いま”に集中し、その瞬間を重視する考え方は、仏教、禅などの東洋の宗教、東洋哲学などに見られるもので、「マインドフルネス」運動として西洋社会でも実践されるものだ。この概念は、人生の意味の喪失……つまりは実存的不安や、死、老化、日常の不安などに対して有効だと広く考えられている。『ボージャック・ホースマン』という作品は、いわゆる「ミッドライフ・クライシス(中年の危機)」に陥ったワクスバーグ自身の不安の表れであると分析することもできるが、そこへの対処として、より個人的な物語を扱う本シリーズにおいて、こういった構成が用いられたというのは、納得できる流れである。
本シリーズは、あえて視聴者の時間の感覚を狂わせ、どの時間にも同じだけの価値を置くことによって、われわれに時間について、あらためて考えさせる瞬間を提供する。そして、その物語から、われわれは『ボージャック・ホースマン』を観たときと同じく、あるいはそれ以上に、自分の家族や人生について考えざるを得なくなるだろう。胸が苦しくなる瞬間もあるし、陰鬱な気持ちを促す瞬間もある。だが、それこそが、本シリーズが単なる娯楽でなく、レイモンド・カーヴァー作品のような文学として受け止めることができる証拠でもあるのだ。
■配信情報
『長くて短くて、短くて長い』
Netflixにて配信中
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