『呪怨』Vシネマ版の恐怖は25年経っても色褪せない! “徹底した容赦のなさ”が起こす恐怖

 1990年代後半に訪れた「Jホラーブーム」のさなか、変革を予感させる2000年という年に、『呪怨』は東映Vシネマ(オリジナルビデオ)作品として誕生した。当初はセールス面で伸び悩んだものの、評判が口コミで都市伝説的に広まり、いつしか噂は海外にも到達。ブームを最高潮にまで高めた立役者となると同時に、圧倒的パワーで他を引き離す孤高の存在ともなった。

 結局、これほどの衝撃とスター性を持ち得た作品は現れなかったし、のちのシリーズ化とスピンオフによる“増殖”ぶりも他に類を見ないものだった。そのなかでも「いちばん怖い」原点として君臨し続けたのが、最初の『呪怨』『呪怨2』Vシネマ版である。

 監督・脚本を務めた清水崇は、当時はまだ20代の無名の新人。そのためプロモーションの前面に出されたのは、監修としてクレジットされた『リング』(1998年)の脚本家・高橋洋だった。パッケージに添えられたキャッチコピーも「リングの高橋洋が、新たな恐怖であなたを襲う!」というものである。

 監修といっても、大人たちの考えるセオリーを押し付けたり、ジャンルの定型を守らせて商業性を担保したりするような「守りの指導」ではなかった。いま見ると、むしろ若き清水崇の才能と発想を「抑えなかった」ことが最大の功績ではなかったかと思える(それは後年の清水崇プロデュース作品にも通じる姿勢ではないだろうか)。

 初めて『呪怨』Vシネマ版を観たときの衝撃を思い出すと、やはり「徹底した容赦のなさ」が印象深い。修復不可能な家庭不和と本人のストーカー気質によって、理不尽な暴力の標的となり、非業の死を遂げた女性・伽椰子。怒りと執念ではち切れそうな血みどろの怨霊と化した彼女は、自分の世界に近づいた者は相手が誰であろうと暗黒の呪いに染め上げる。その幼い息子・俊雄も、壮絶な家庭内暴力・育児放棄に巻き込まれ、もはや生きているのか死んでいるのかわからない領域で生者の魂を闇の奥に引きずり込み続ける。

 新時代のホラースターは、現代の陰湿な暴力に殺された弱者の代表でもあった。といっても、当時の清水監督がはっきりと日本社会に対する問題意識を投影したわけでもないだろう。おそらくそれは20代の若者にとって、ごく当たり前に「よく見かける人々」の姿だった。

 伽椰子の夫・剛雄は、嫉妬の果てに狂気の無差別殺人犯と化し、妻が横恋慕した教師の家族を血祭りにあげる。現実と霊界の双方向から陰惨な殺人劇が生み出され、その境界は加速度的に崩れていく。さらに、運悪く新たに引っ越してきた家族と、その関係者、たまたま捜査を担当した刑事に至るまで、一見無関係であっても「あの家」に少しでも関わってしまったが最後、等しく呪いのえじきとなる。この「例外を許さない厳しさ」が怖かった。

 通常のドラマなら救いをもたらしてくれそうな霊能者の女性・響子も、ここでは家族ぐるみで狂気へと引きずり込まれる。片や霊感は一切ないまま、「あの家」の媒介役となる不動産屋の彼女の兄・達也が作中でいちばんタチが悪いような気もしてくるが、彼もまた無傷ではいられない。呪いは「あの家」からも解き放たれ、外界に広まっていく予感とともに幕を閉じる。

『呪怨』はなぜ伝説的作品となったのか 清水崇監督に“すべての始まり”Vシネマ版を聞く

25年前、無名の新人監督による初長編オリジナルビデオが、世界のホラー映画史にくさびを打ち込む“永遠不滅の傑作”となった……その名…

 清水監督へのインタビュー記事でも触れたが、当時の心霊ホラーとしては、ここまで直接的で過激な暴力表現は珍しく、痛快ですらあった。見せすぎない演出による静謐なムード醸成を重視するJホラーの風潮は、ともすれば「地味」に傾きがちだったが、『呪怨』には手加減抜きの派手さがあった。血まみれの機械人形のごとき伽椰子の禍々しいビジュアルはもちろん、「下顎を引きちぎられた女子高生」「電話ボックスで胎児の入った袋をメチャクチャにぶん回す男」といったイメージに、トラウマ級のインパクトを植え付けられた人は多いはずだ。

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