『国宝』が孕むジェンダー的懸念 眼福の芸術家神話を下支えしているのは誰か?

 陳凱歌(チェン・カイコー)の『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993年)を巧みに換骨奪胎したとも言える本作だが、疑問点が全くないわけではない。『覇王別姫』の骨になる〈反復〉の構造を引き継ぎながらもそこから歴史の力学という重要なテーマを奪ったことによって物語がいささか散漫になってしまった印象がまずあるように思われる。人生で重要な出来事のいっさいはすべて幼年期のうちに胚胎されているという想念の恐るべき発芽が引き起こすあまりに残酷な二度目の反復がーーたとえば物語の前半と後半に二度繰り返される首吊り自殺を想起されたいーー物語に骨太な構造を導入していた『覇王別姫』に倣い、『国宝』もまた重要な歌舞伎の演目が必ず二度反復されていた。

 冒頭近くで万菊(田中泯)が踊り、末尾に再び繰り返される『鷺娘』、東一郎と半弥が最終的に共演することにもなる『曽根崎心中』、あるいはまた二人の共演の代名詞にもなる『二人道成寺』。この二度の反復はなるほど『覇王別姫』の構造を表層的に連想させもするがしかし、じっさいの歴史の転変と密接に連動することから生じる『覇王別姫』の豊かなドラマの幹が『国宝』にはない。ここでは伝統芸能が内在的に持つ政治性の行方を問われることもない。

 それはジェンダーに対する問いの希薄さにも通じるものだろう。陳凱歌が問い、あるいはまた溝口健二が社会矛盾の露呈としてそのフィルモグラフィのなかで主題化したジェンダーへの問いを不問に付しながら、映画『国宝』はあまりにご都合主義な作劇の道具のために安易な女性像をただ再生産するばかりだ。

 画面の美的な陶酔の陰で、それを下支えする価値観はかなり困ったものであるように思われる。政治的あるいは歴史的な主題を遍く避け、ジェンダーの問いを隠蔽したまま「日本一の歌舞伎役者になれるように悪魔と取引したんだよ」と擬似ファウスト的な芸術家神話にもたれかかっていっさいを解決してしまうこれらの作劇はイデオロギーとしてごく単純で、その分だけいっそう巧妙であるのではないだろうか。近過去に舞台を設定してノスタルジアを適度にまぶしつつここに見られるのは、結局のところハラスメントに満ちた日本の微温的な現状肯定でしかないようにも思う。

■公開情報
『国宝』
全国公開中
出演:吉沢亮、横浜流星、高畑充希、寺島しのぶ、森七菜、三浦貴大、見上愛、黒川想矢、越山敬達、永瀬正敏、嶋田久作 宮澤エマ、田中泯、渡辺謙
監督:李相日
脚本:奥寺佐渡子
原作:『国宝』吉田修一著(朝日文庫/朝日新聞出版刊)
製作幹事:アニプレックス 、MYRIAGON STUDIO
制作プロダクション:クレデウス
配給:東宝
©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
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