『鬼滅の刃 無限城編 第一章』徹底解説 「強い者は弱い者を助け守る」は今の世界にこそ響く
日本映画歴代最高の興行収入を稼ぎ出した『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(2020年)公開から5年。TVシリーズ『遊郭編』『刀鍛冶の里編』『柱稽古編』を経て、再び『鬼滅の刃』が、TV版総集編でない映画用の新作として劇場に戻ってきた。『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』である。
未曾有のヒットを成し遂げた実績から、「映画館ジャック」と呼ばれるほどに多くのシアターで上映され、映画ファンの一部からは戸惑いの反応もあった。しかし予想以上に観客がつめかけ、新記録を刻んだ『無限列車編』以上のスピードで興行成績が推移しているのも確かなことだ。映画館には若い世代だけでなく老若男女さまざまな層が足を運んでおり、まさに「国民的」作品として定着したように感じられる。今後、世界での上映でどれほど成績を伸ばすかにも注目される。
超高密度の特大ボリュームを成り立たせたストーリーテリング
まず本作が常軌を逸しているのは、その上映時間だ。通常、多くの劇場用長編アニメーションは90分前後が相場だといえる。しかし本作は『無限列車編』の117分を大きく超える155分、つまり2時間35分という、下手すれば長編アニメーション映画2本分にも手が届きそうな程のボリュームを用意してきた。ここまで長いと上映回数の面で不利になるにもかかわらず、である。
もう一つ特徴的なのは、その時間いっぱいに、みっちりと原作のエピソードと細かなオリジナル描写を凝縮させ詰め込んだ点である。TVシリーズ前シーズンで2度観せられてしまった、鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)が、産屋敷邸にゆっくりゆっくりスローモーションで歩いてくるオリジナル演出を、また観ることになるのかもと覚悟していたら、とんでもなかった。上映時間全編のほとんどが、気合の入った新作カットで構成されているのだ。
これまでもTVシリーズでは、原作エピソード複数話を1話にまとめるなどしてテンポよく濃密な話運びを実現させていた。ただ正直なところ、直近のTVシリーズ『柱稽古編』については、本筋に影響がないオリジナルストーリーが追加されることで、内容的には薄いものになってしまっていたことは否めない。そんなギャップもあっただけに、これまで以上に濃縮された本作のインパクトには、たじろがざるを得なかったのだ。
これは基本的に原作通りのストーリー構成を再現するという、近年の原作付きアニメの製作姿勢を踏襲しながら、タイトルの「猗窩座再来」からも分かる通り、最終決戦のスタートから、積年の思いが投影される戦いを映画のクライマックスに配置するといった、『無限列車編』で観客が味わった感情にアンサーを提示する意味において必然的なものであり、このアヴァンギャルドにすら感じられる上映時間は、じつは状況に即した産物であることが理解できる。
一方で、ここからの原作の単行本の残ったボリュームを思えば、このくらいの流れで消化していかねば、今後計画されているだろう映画での完結というプロジェクト完遂には、いつまでかかってしまうか分からない。とくに今回の濃縮具合ではっきりしたように、『鬼滅の刃』シリーズ完結までを、あと2作で終わらせられるかというと、かなり微妙なところだと思えてくる。
この見通しは、『無限城編』第二章公開時に、エピソード消化の進捗にてはっきりすることになるだろうが、三章の後に「最終章」を設ける可能性も十分にありそうだ。その場合、さらにそれを前後編に分けることもあるのかもしれない。日本のアニメの販路拡大によって、作品の受容がグローバル化していくなか、その最も大きな起爆剤となっているアニメシリーズ『鬼滅の刃』が、どういう流れで物語を完結させるのかは、スタジオ「ufotable」や集英社、アニプレックスなど関係各所の判断に委ねられる。
いずれにせよ、いちばん大変なのは製作スタッフだろう。TVシリーズの進行もある上で、常軌を逸するようなペースでスタジオの製作が進行していたことは間違いない。目標を達成するためスタッフを増強し、CG映像のレンダリングのための設備を大幅に増強したことが伝えられているように、作業量はあまりに膨大だ。劇場用のグッズ制作も急ピッチで進んでいたことだろうと推察する。その裏には、ファンの熱気が持続しているうちに新作を打ち出したいという、作り手の願いとビジネス上の戦略の絡み合いが感じられるところだ。
無限城の有機的な視覚演出
さて、ここからは『無限城編』第一章の内容について、段階的に深く考察していく。読み応えを期待する読者のために、さらなる長文を用意したので、本作の物語や演出を読み解く上での材料としてほしい。また、本作を一方的に褒めたたえるのでなく、敬意を持ちながら、映画、アニメーションの歴史を踏まえ率直な評価を与えるバランスで書くことを承知してもらいたい。
(※ネタバレアラート 本記事では、『無限城編』第一章のストーリー展開を、一部明かしています。)
『柱稽古編』のラストでは、TVシリーズ視聴者が想像だにしなかっただろう衝撃的な展開が描かれ、主人公・竈門炭治郎(かまど・たんじろう)は、ついに無惨の本拠地「無限城」に足を踏み入れる。そして、炭治郎だけでなく多くの隊士たちを擁する、子々孫々に鬼討伐の技を継承してきた組織「鬼殺隊(きさつたい)」の最終目標でもある鬼舞辻無惨との最終決戦・総力戦の火蓋がきられたのだ。無惨はとくに炭治郎にとって、自分の家族を殺害され、妹の禰豆子(ねずこ)を鬼にされた、憎き仇敵でもある。「必ず倒す!」と叫ぶシーンがTVシリーズのラストのクリフハンガーとなり、本作のタイトルバックに繋がる。
無限城のなかには、無惨が鬼にしたおびただしい数の配下と、最強クラスといえる「十二鬼月(じゅうにきづき)」の「上弦」の鬼たちが複数潜んでいる。なかでも「上弦の参」に位置する猗窩座は、鬼殺隊の最強格隊士「柱」の一人、「炎柱」煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)に、炭治郎の目の前で致命傷を与えた鬼でもある。煉獄の刀の鍔(つば)を、「心を燃やせ」という精神とともに受け継いだ炭治郎にとっては、猗窩座もまた仇敵なのである。
鬼に恨みを持っているのは、炭治郎だけではない。劇中で「岩柱」悲鳴嶼行冥(ひめじま・ぎょうめい)が語るように、無限城に入り込んだ多くの鬼殺隊士が、それぞれの思いを胸に秘め、「無限“回廊”」と呼ぶには広大過ぎる幻惑的空間で戦い続けるのである。そして、その一人である「蟲柱」胡蝶(こちょう)しのぶは単独で、姉カナエの死に関係する衝撃的な事実の判明とともに、「上弦の弐」童磨と対峙することになる。
一方、我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)もまた一人で、最も大事な人の仇となった「新・上弦の陸(ろく)」の鬼に、無限城の一間で遭遇。この都合の良いマッチアップ(組み合わせ)をプロデュースしているのは、琵琶の音で無限城の有機的な動きを司ることができる「新・上弦の肆(し)」鳴女(なきめ)であるようだ。鬼側にとっては、鬼殺隊士に共闘関係を作られるのが厄介。戦力を削ぐため、炭治郎と「水柱」冨岡義勇のコンビネーションを寸断しようとするが、同門のツーマンセルはなかなか崩れない。
その甲斐あって、猗窩座との対決は単独でなく、「ヒノカミ神楽」をメインの型にスイッチし成長著しい炭治郎と、「水の呼吸」の熟練の域に達する義勇という強力な戦力で臨めることになる。義勇の述懐のとおり、いまや炭治郎の強さも、「柱」のレベルに接近しつつある。しかし、それでも猗窩座は鬼の固有能力「血鬼術(けっきじゅつ)」による「破壊殺(はかいさつ)」を駆使し、自身の基本となる戦闘スタイル「羅針」を頼りに、素手による正確無比な打撃技の数々で、双方からの剣技に難なく対応する。
炭治郎と義勇の異なる型による波状攻撃は、猗窩座の限界を引き出していく。以前われわれが観た、空気圧による遠隔打撃「空式」、連続打撃「乱式」はもちろんのこと、新たに足技による「脚式」、範囲攻撃の「砕(さい)式」など、人間がまともに受ければ即死間違いない、豊富な「破砕殺」のラインナップが次々繰り出される。このひりひりとした緊張感が、猗窩座戦の醍醐味だといえよう。
スピードも威力もどんどんエスカレートしていき、無限城内の構造物が次々に崩壊していくシーンが象徴するように、『無限列車編』において煉獄を圧倒していた猗窩座は、まだそのときには実力を出しきっていなかったことが分かってくるのである。義勇もまた、一瞬のミスが死に至る極限状況の戦いのなかで、自身の限界を超えた、さらなる境地へと進む。だが、それでも持久戦においては猗窩座に圧倒的な分があり、義勇はかつての煉獄と同様のパターンで消耗、負傷してゆく。勝敗の行方は、必然的に炭治郎へと委ねられるのだ。
物語は、この死闘の決着と、猗窩座の人間時代のエピソードまでを描いていく。本作が特異なのは、悲鳴嶼の決意のシーンから始まり、ほとんどクライマックスにも近い緊張感で、すぐに鬼殺隊士たちが臨む最終決戦からスタートするという構成だ。多くの映画は、序盤から少しずつ描写を積み上げ、段階的にギアを上げていくものだ。そしてクライマックスに向かっていく。『無限列車編』もまた、構成上そうだったといえる。
だが本作では、あちこちに細かなコメディリリーフは散りばめてあるものの、一本の映画としてはバランスが崩壊しているといえるほどに、山場が延々と続いていくのである。それもそのはずで、胡蝶しのぶにしても我妻善逸にしても、これまで視聴者、観客が追ってきたキャラクターたちが、自身の集大成といえる最大の戦いに挑むのである。そしてわれわれは、煉獄の犠牲を知っていることで、最強の敵たちとのバトルに絶えず緊張を強いられることになる。全編にインテンシティがみなぎることで、155分の本作を観る経験は、必然的に多くの観客が言う、良い意味での「疲労困憊」へと繋がるのだ。
興味深いのは、いったん物語が落ち着き、「通常」の映画作品のように本格的なビルドアップが始まるのが、猗窩座の回想シーンに入ってからだということだ。善逸やしのぶ、童磨の回想も観られるが、それらはボリュームとしては控えめで、腰を据えた別個のエピソードとまでは言い難い。
しかも猗窩座のそれは劇中のラスト近く、クライマックスにあたる時間帯に訪れるのである。もちろんこのシフトダウンは、本作のドラマ上の最大の山場へと繋がる準備となるわけだが、全編が山場で、クライマックス付近にだけ谷があるという脚本は、あまり類例のない構成だといえる。
TVシリーズからの続編であるという事情があるにせよ、ハリウッド的な脚本術からみれば基本を外したストーリーテリングだとして、忌避される試みといえるかもしれない。だが、それが本作の圧倒的な個性に繋がっている。前述したような数々の条件が重なって生まれたこのユニークな構成は、それが奇妙であるからこそ、ある意味で『無限列車編』を超える、映画作品としての見応えになっているといえるのである。
脚本に大きく変化を与えることなく、しのぶ、善逸、炭治郎たちが挑む因縁の対決を盛り上げていくのは、例によってエフェクトやCG、カメラワークなどの演出部分である。TVシリーズの『那谷蜘蛛山編』での炭治郎の戦いが、原作のスケール感を大きく超える演出によってエモーションをブーストさせたことが、アニメ作品『鬼滅の刃』を話題作に押し上げたように、シリーズは原作の内容を改変することなく、しかし過剰に描くことによって、アニメとしての価値を視覚的に高めてきたのだ。そして、そういった「飛び道具」といえる分野こそが、スタジオ「ufotable」の最も得意とするところなのである。