『海に眠るダイヤモンド』の物語は“私たち”に続いていく 野木亜紀子が描ききった罪と愛
かつて進平(斎藤工)はメガネで「石炭の幽霊」を見ていた。『海に眠るダイヤモンド』(TBS系)は亡霊たちのドラマだ。塚原あゆ子監督、新井順子プロデューサーをはじめとする『アンナチュラル』(TBS系)チームが綿密なリサーチとVFX技術によって当時の端島を作り上げたように、脚本家・野木亜紀子は、恐らく全話をかけて、「端島」という巨大な亡霊を作り上げたのではないか。
当時まだ幼かった竹男(番家天嵩)までもが現在はこの世にいない。朝子(杉咲花)以外はもう誰もいなくなってしまった、まさに第1話冒頭のモノローグ通り「今はもういない人々」が集う端島を、現代の朝子であるいづみ(宮本信子)が見つめる。いづみが「私の中に」あると語った光景は、まるで死者たちの祭りのようだ。「端島でとれたお米」の稲穂を抱え走る竹男を見つめる人々の優しい眼差し。今はもう叶わないやりとり。「あったかもしれない世界」の光景は、鉄平(神木隆之介)が朝子(杉咲花)にプロポーズするために作ったギヤマンの花瓶のように「キラキラ」していた。
では、私たちは、光り輝く「亡霊」を通して何を見たのだろう。最終話においていづみは今の端島を見にいくことに怖気づく自身を鼓舞するように「そうだ、死骸、石炭。石炭だと思えばいい。50年前の残骸、なれの果て。何てことないじゃない」と言う。その言葉は、第6話でリナ(池田エライザ)が言った「今の幸せの下にはたくさんの犠牲がある、のかなあって。海の下にある石炭。石炭って植物の死骸だって言うでしょ、植物の死骸に私たちは生かされてる。そんな風に」という言葉を呼び起こす。本作は、数多の「海に眠るダイヤモンド」、今はいない人々の思いによって生かされている、現代を生きる私たちの人生のことを描きたかったのではないか。
そして、第7話の炭鉱長・辰雄(沢村一樹)が言った「皆さんが生きている限り、この島の灯は消えません」という言葉の続きのような、最終話のいづみの「誰もいなくなっても、玲央が覚えててくれるのね」という言葉が、まるで今はいない彼ら彼女らの言葉のように、永遠に木霊する。
最終話で明かされた荒木鉄平(神木隆之介)のその後の人生は、なんとも切ないものだった。兄・進平の業を全て背負って、それこそ「今度こそ間違えないように、悲しみを繰り返さないように(第4話)」彼は逃げることで憎しみの連鎖を止めようとした。しかし「死体も存在しない男を既に死んだ男が殺して自分が命を狙われている」ために何十年も逃げ続けるとは、なんと数奇な人生だろう。まるで過去の亡霊に追われているようだ。
そして「端島に生かされとる」と朝子に言われた鉄平もまた、端島を失った後は、端島という過去の夢を見て、朝子との未来を想像して作った「私たち2人の、毎日の生活を彩る花瓶」を抱えて生きる術しかもたなかった。幼い頃の鉄平(河原瑛都)がくれたからと長年大切にしていた花瓶代わりの瓶、つまりは「過去」を象徴する花瓶を捨て、虎次郎(前原瑞樹)と結婚し子どもたちが生まれ、「愛しい人の思い出はすべてあの島へ置いて」きて、新しい人生を生きた朝子とは対照的である。
「過去には生きられんやろ、未来にも生きることはできんたいね。だから今に最善を尽くすこと」「全てを抱えて一生懸命生きていく。それが人間たい」という和尚(さだまさし)の言葉を借りれば、まさに「生きることができない」過去と未来のみを抱えて生きるしかなかったのが「端島に生かされていた」荒木鉄平の悲劇であり、「今に最善を尽くし、すべて抱えて一生懸命生きた」のが朝子/いづみの人生だった。