『デューン 砂の惑星PART2』にみる映画の“雄大さ” ヴィルヌーヴ映画の醍醐味がここに

 リサーン・アル=ガイブ(外世界からの救世主)はカナダからやって来た。今年57歳になる監督ドゥニ・ヴィルヌーヴは長年、誰も実現することができなかった『ブレードランナー』続編映画、『ブレードランナー 2049』を創り上げた後、これまで幾度も映像化が試みられ、砂漠の塵と消えたフランク・ハーバートのSF大河小説『デューン 砂の惑星』の映画化に取り掛かった。2021年に公開された第1作『DUNE/デューン 砂の惑星』は155分間の末、ほとんど物語が進行することなく「さぁ、冒険の始まりよ」とゼンデイヤが告げるラストシーンにめまいを覚えた人も少なくないだろうが、待ってほしい。今やスマートフォンで容易に映画を観ることができる時代、私たちはそもそも映画が持つ雄大さを忘れていた。『デューン 砂の惑星PART2』は見せ場のためだけに場面をつなぐ凡百のスーパーヒーロー映画を砂漠に葬り、観客に「楽園へ連れていってやる」と宣言する。スクリーン、それもできる限り巨大なスクリーンでこそ映える画面構成、音響設計、そしてティモシー・シャラメら“現在進行形”のオールスターが映画の復権を謳う。中盤以後の語りのペースが砂に足を取られたように見えなくもないが、TVシリーズが隆盛を極めた後、巨大な映画には然るべき語りの時間があるのだと思い出させてくれるのだ。

 しかもここには予定調和なハリウッド映画にはない、目を疑うようないびつさが同居している。前作にも実現に至らなかったアレハンドロ・ホドロフスキー版(『ホドロフスキーのDUNE』)や、失敗作の烙印を押されたデヴィッド・リンチ版(『デューン/砂の惑星』)らのグロテスクなイメージが点在していたが、本作にも中盤、ハルコンネン家の牙城ジェディ・プライムが登場し、その禍々しいまでのヴィジュアルイメージは目を剥く。黒色太陽の惑星では全てがモノクロに照らされ、光を放たない花火がまるで墨汁のように空に拡がるのだ。映像ルックで惑星を描き分けたSF映画がこれまであっただろうか? この太陽の下でヴィルヌーヴがレア・セドゥを撮りたかったのは想像するまでもなく、セドゥはジェームズ・ボンドを陥落した後、ウェス・アンダーソン、デヴィッド・クローネンバーグと名だたる監督を籠絡、場をさらっている。

 物語は前作の直後から始まるため、復習は必須だ。仇敵ハルコンネン家の策略によって一族郎党皆殺しとなった亡国の王子ポール(ティモシー・シャラメ)と母ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)は、砂漠の民フレメンのもとに身を寄せる。ポールはフレメンのリーダー、スティルガー(絶妙なさじ加減で軽妙さを持ち込むハビエル・バルデム)にリサーン・アル=ガイブ(=外世界からの救世主)と信奉されるが、それは宇宙を巧妙にコントロールしてきた魔女結社ベネ・ゲセリットによるプロパガンダであり、ポールは彼女らによって作られたいわば“約束されたヒーロー”なのだ。

 この捻じれこそがヴィルヌーヴ映画の醍醐味だ。『灼熱の魂』『プリズナーズ』『ボーダーライン』『ブレードランナー 2049』……ヴィルヌーヴ映画ではしばしば物語が反転、主人公が入れ替わり、観客に世界への懐疑心を抱かせる。『デューン 砂の惑星PART2』で交わされる言葉“フェダキーン(戦士)”も“マフディー(預言者)”も語源を辿ればアラブ語にあり、虐げられてきた民族を白人の救世主が導く物語の危うさを、ヴィルヌーヴは見抜いている。熱狂が英雄を生み、狂信は英雄に暗示をかける。ティモシー・シャラメが少年の面影を捨て去る終幕、私たちはジェシカの「大戦が始まる」という言葉に、スクリーンに映ることのない来たるべき大虐殺を幻視するのだ(そう、ポールの手の内には古代人類、オッペンハイマーが開発した核爆弾がある)。

関連記事