『ある閉ざされた雪の山荘で』に訪れた“嬉しい誤算” 重岡大毅&岡山天音の成長譚に注目

 あるペンションに7人の俳優が集められた。目的は、人気劇団「水滸」の次回公演の主役オーディションである。

“外部との通信が遮断された大雪の山荘内で、次々と起こるイレギュラーな出来事に、4日間俳優として対処し続けなければならない”

 ところどころに仕掛けられたカメラによる監視のもと、彼らの一挙手一投足が、すでに審査の対象となる。

 東野圭吾の同名小説を映画化した作品『ある閉ざされた雪の山荘で』は、このようにして始まる。

 この“シチュエーションだけ与えて、後は役者が即興で自由に演技をする”ことを、エチュードと呼ぶ。

 エチュードは、役者の即興力、相手のアクションに対する反応力、瞬間的なストーリーテリング能力、そして、垣間見える役者の“素”の魅力を測ることができる。

 だから、しばしばオーディションで行われる。役者にエチュードをさせ、そこで生まれた展開をもとにホンを書く脚本家もいる。

 “4日間に渡る大掛かりなエチュードによるオーディション”と考えれば、ありそうな話ではある。だが、そこで起きる“イレギュラーな出来事”とは、連続殺人事件であった……。

 犯人“役”は誰なのか。「◯◯は△△の方法で殺された」というメッセージだけが現場に残され被害者“役”は姿を消すが、では彼らもグルなのか。しかし、芝居としては現場の状況証拠がリアル過ぎる。遺体を投げ込んだかもしれない井戸の淵に被害者の衣服の切れ端が付着していたり、凶器の花瓶に本物の血が付いていたり。

 これは芝居ではなく、本当の殺人事件なのではないか。みなが疑心暗鬼になった時、真っ先に疑われる人物がいた。

 ひとりだけ、劇団“外”からオーディションに参加した人物。それが、重岡大毅演じる久我和幸である。

 冒頭、劇団「水滸」の6人と久我の初対面のシーンにおいて。

 劇団内でもっとも性格の悪い俳優・笠原温子(堀田真由)が、久我を遠目に見ただけで「わたし、嫌いかも」と呟く。なにげないシーンではあるが、温子と久我、両者のキャラがよくわかる。

 「水滸」のメンバーは、おそらく演劇エリートなのだろう。特に温子は、そのことにプライドを持っている。悪く言えば、鼻にかけている。解散した無名劇団出身のひと山なんぼの役者に対して、明らかに選民意識を持っている。

 そして、まさに重岡大毅の醸し出す“ひと山なんぼ感”が見事だ。

 本当はバリバリの現役アイドルなのに、第一印象だけで女性に嫌われねばならない。温子が「嫌い」と言ったのは、その「垢ぬけなさ」に対してだろう。まだ稽古も始まっていないのに、最初からジャージ姿だったし。

 「明るくて顔も悪くないけど、いまいちダサくて垢ぬけないよね」という感想を抱かせ、「だから今まで売れなかったのね」という結論に至らねばならない。アイドルそのままのオーラで演じては、この役は成立しない。「いや売れてへんわけないやろ」と、鑑賞者に思わせてはいけない。かわいさは残しつつ、ちょうどいいバランスで光を消している。

 また、例の温子に「久我和幸にとって芝居とは?」と尋ねられて「殺し合い」と答える青さ。俳優としての実績で上回る相手に「同い年だから」と初日からタメ口を聞き、「なんでタメ口?」とキレられる、その距離の詰め方の下手くそさ。

 20代の頃に演劇をやっていた筆者も、同じように悪い意味での「若さ」を抱え、同じような失敗をした。筆者のように演劇から挫折した人間なら、共感性羞恥で身悶える場面である。

 演劇は“集団芸術”だ。映像と違い常に舞台を俯瞰で観られるため、アンサンブルの調和が命である。だがえてして「芝居=殺し合い」な青臭い若手が、自分だけが目立とう目立とうとして前に出過ぎ、結果、ただ悪目立ちをする。アンサンブルも、ぶち壊す。

 本作の久我も、そのような若手だったのだろう。その雰囲気がにじみ出ていたからこその、温子の「わたし、嫌いかも」でもある。温子はおそらく、そのような「俺が俺が」精神のせいで自滅していった役者をごまんと見てきたはずだ。

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