『マーベルズ』キャラクターを愛せるコメディ映画としての成功 映画作りとしての課題も

 「喪失とその先を考える」がテーマのように感じられたマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のフェーズ4について、以前こちらに寄稿した(MCUフェーズ4、なぜファンから批判が集まるのか フェーズ5以降に期待できること)。そこでは『アベンジャーズ/エンドゲーム』以降の“マーベル倦怠期”について触れつつも、フェーズ5への期待を書いたのだが、残念ながらその原稿を書いてから約1年半の月日が経っても状況は変わっていない。むしろ、米誌Varietyは11月1日に大きく「マーベルの危機」と題した特集記事を発表するなど、数多くの媒体が大きな声でMCUの衰退と問題点を指摘するようになった。世間の「スーパーヒーロー映画離れ」も進んでいる。そんな今、マーベル・スタジオ最新作『マーベルズ』が公開された。果たしてマーベルの窮地を救うような作品だったのか、本作の“光と闇”に触れていきたい。

映画の“光”となったカマラ・カーンの存在感

 本作は、ドラマ『ミズ・マーベル』最終話で描かれた、カマラ・カーン(イマン・ヴェラーニ)とキャロル・ダンバース(ブリー・ラーソン)が入れ替わったシーンに直接繋がる作品となる。カマラの他に『ワンダヴィジョン』で本格登場したモニカ・ランボー(テヨナ・パリス)も中心人物として動き、『シークレット・インベージョン』後のニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)も関わってくる。しかし、本当に『マーベルズ』が『シークレット・インベージョン』の後の話なのか疑いたくなってしまうくらい、フューリーの“キャラ変”には正直戸惑ってしまったものだ。

 しかし、ドラマ版から変わらないでいてくれたのが、カマラ・カーン。彼女と彼女の家族の存在感は本作を救ったと言っても過言ではないだろう。カマラの興奮は演じるイマン・ヴェラーニ自身のマーベル映画に参加する興奮と重なり、演技や反応そのものに真実味が帯びている。常に愛らしくて、新生チーム“マーベルズ”のみならず映画全体のムードメイカーとなった彼女と、キャロル、モニカとの関係性は本作の最大の魅力だった。そしてカマラ目線で捉えると、本作は“推し”について考えさせられる面白い側面も持っている。

 彼女の物語は、キャロル(推し)と過ごす過程で変化を見せていく。パク・ソジュン演じるヤン王子とキャロルのダンスシーンではしっかり次回作の同人誌ネタを収穫しつつ、彼女がスクラル人を見捨てた時には憧れの人への失望を覚えるカマラ。しかし、幼い頃から“おばさん”として、つまりスーパーヒーローではなく一人の人間としてキャロルを捉えていたモニカの視点から気づきを得たカマラは、劇中でキャロルに謝る。推しを神格化してしまうことは、時に推し本人の人間性を無意識に否定する行為になってしまう。そのことへの気づきと、理想を勝手に抱いていたことへの反省の念で、カマラはキャロルに一人の人間として接するようになる。その成長譚は現実社会に通じ、セレブリティとファンダムの健康的な関係性作りにおいて何が大切なのか、何を考えなければいけないのか、私たちに気づきを与えてくれた。

 アイドルやヒーローなど、自分の憧れに会うことでなんらかの落胆が伴うことを意味する「Never meet your heroes」という格言があるが、それを第1話のタイトルに冠した『ホークアイ』のケイト・ビショップ(ヘイリー・スタインフェルド)とカマラは、どちらも推しヒーローの影響を受けた存在として共通点が多い。エンドクレジットシーンでカマラは彼女の元へ会いに行き、「ヤング・アベンジャーズ」結成を持ちかける。この2人の共演も非常に楽しみだ。

 そんなカマラの両親も、単なるコミックリリーフとして以上に、「マイナー(未成年)がヒーロー活動をすること」について、より現実的に受け止められる存在としてスクリーンの中で光り輝いていた。ちゃんとカマラの母・ムネバ(ゼノビア・シュロフ)がフューリーに怒り散らかす様子など「そりゃあ心配するよね」というところが描かれているのが好印象である。ファミリーの愉快さも、本作のコメディパートに大いに役立っている。

キャロル・ダンバースの弱さと罪を描く

 では、カマラとその家族だけが本作の良さだったかというと、そういうわけでもない。主人公的な立ち位置にいるキャロルについても、これまで彼女が見せてこなかった感情や恐怖を描くことで、より立体的なキャラクターになったように感じる。前単独作の『キャプテン・マーベル』では記憶を改竄され、スクラルとクリー人の戦争に利用されたキャロル。実は彼女にとっての最大の敵であるスプリーム・インテリジェンス(アネット・ベニング)を倒しているため、彼女の復讐譚は済んでしまっているのだ。そこで興味深いのが、本作で立ち向かわなければいけない問題が、自分自身が招いた“コラテラル・ダメージ”だったということだ。

 キャロルが個人の復讐を遂げたことが、惑星ハラの内乱を引き起こしてしまったこと。その内乱のせいで惑星の自然資源が枯渇してしまい、空気も水も、太陽さえもなくなってしまったというのは、あまりにも被害が大きすぎる。これまでも、ヒーローが良かれと思ってやったことが、何かの引き金となってこういう出来事が起きていても不思議ではない。ヒーローによる“コラテラル・ダメージ”は、『アベンジャーズ』のニューヨークの決戦の頃から少しずつ語られていることではあるが、本作のように“殺戮者”と強い言葉でキャロルの罪を強調する展開は非常に興味深かった。実際、本作の劇中でもキャロルは惑星ターナックスでの和平交渉において、頼まれてもいないのに介入し、その結果交渉が決裂した(決裂の理由を与えてしまった)。その結果、多くのスクラル人が崩壊する惑星に取り残されて死ぬ結果を招いてしまう。彼女は残念ながら、最強のスーパーヒーローではありながらも多くの犠牲者を自分の意思に反して生み出してしまうのだ。それを表す“殺戮者”という呼び名であり、そう呼ばれることを嫌いながら自分の罪に向き合うことを避け続けていた “弱さ”を描いたことで、キャロルのキャラクター性により深みが出た。

 加えてこの一連の出来事が、キャロルが地球に必要以上に寄り付かなかった原因のように思えるのだ。彼女の記憶から、親友のマリア(ラシャーナ・リンチ)に度々会いに行っていたことが明かされたが、地球にいすぎると不本意に地球人を傷つけてしまうのではないかと、恐れていたのかもしれない。幼い頃から否定され続けたからこそ、タフに自分を見せてきた“キャプテン・マーベル”。『アベンジャーズ/エンドゲーム』に出てきた時も我が強そうな印象を与えたが、『マーベルズ』でより人間らしさが描かれたことで、“最強”だけど“完璧”ではない彼女のことがより好きになった。そして、最終的に自分の犯した罪に向き合い償うことで、彼女は改めて平和をもたらす“スーパーヒーロー”になれたのだ。

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