菊地健雄監督と振り返る、渋谷のミニシアター文化 「シネマライズは特別な空間だった」

 2000年代前半、渋谷には数多のミニシアターがあった。ミニシアター作品から大作まで、渋谷に行けばすべての上映中の映画を観ることができると言っても過言ではなく、映画作家の特集上映も多数行われていた。しかし、シネコンの急増や、都市開発の影響でこの20年で多くの映画館が閉館。渋谷の映画館の風景も大きく変化している。東京の中でも、池袋、新宿、銀座エリアなどとはまた異なる、渋谷独自の映画文化はいかに作られてきたのか。

 Netflix『ヒヤマケンタロウの妊娠』、Netflix『君に届け』をはじめ、現在は映画監督として多くの作品を手がけている菊地健雄監督は、ミニシアターの代表とも言える「シネマライズ」でアルバイトをしていた。そんな菊地監督にシネマライズの思い出、当時の渋谷のミニシアター文化について、ロングインタビューを行った。(編集部)

カルチャー全般の洗礼をシネマライズで浴びた

閉館直前のシネマライズのチケット窓口 最後の上映作は『黄金のアデーレ 名画の帰還』

――そもそも菊地さんが、最初に渋谷の映画館を訪れたのは、いつ頃のことだったのでしょう?

菊地健雄(以下、菊地):僕は栃木県の足利で生まれ育ったんですけど、1996年に大学進学のために上京しました。まさに当時は、ミニシアターブーム真っ盛りという感じだったんです。そもそも僕が高校生の頃に、ちょうどクエンティン・タランティーノが注目され始めて、それがきっかけでインディペンデント系の映画を見始めたあたりから、僕は映画に興味を持つようになったんです。その当時はシネコンみたいなものもなかったから、いわゆるアートフィルムと呼ばれるようなインディペンデント系の映画は、地方ではなかなか映画館で観ることができない状況がありました。

――タランティーノのデビュー作『レザボア・ドッグス』(1992年)の日本公開が1993年の4月。それこそ、渋谷のシネマライズで公開されたので、まさにその頃ですね。

菊地:そのあとの『パルプ・フィクション』(1994年)は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲ったこともあって、地方の映画館でも結構リアルタイムで観ることができたんです。あと、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991年)なども何年か遅れで、地方でも上映されていて。そういった作品を観ながら、一方で、いろいろな映画雑誌とかも読むようになり、東京には「ミニシアター」というものがあって、そこでしか観ることのできない映画が、いっぱいあることを知りました。それで1996年に上京して、まず最初に行ったのが、渋谷のシネマライズだったんです。

――その頃は、「ミニシアターと言えば、シネマライズ」みたいな感じだったんですか?

菊地:そうですね(笑)。確か、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』(1995年)を観に行ったと思うんですけど。当時は、音楽でも「渋谷系」が盛り上がっていた頃だったので、映画に限らず「渋谷カルチャー」みたいなものが、渋谷の街に渦巻いているような感じがあったんです。シネマライズは地理的にも、その中心に位置していたようなところがあって……スペイン坂を上がって、パルコの向かいにあるという。あと、建物もすごいオシャレだったじゃないですか。なので、地方から出てきた自分としては、「こんなところがあるんだ……」って、すごく驚いたことを覚えています。「ああ、自分は東京にきたんだな……」っていう(笑)。

――(笑)。その後、菊地さんは、シネマライズ(1986年開館。1996年より2スクリーン化。2016年閉館。現在はライブハウス「WWW」が入居・営業している)で、アルバイトをするようになるんですよね?

菊地:そうなんですけど、大学1年生のときは、それこそシネマライズでかき集めたチラシを手掛かりに、都心のいろんな映画館をめぐっていました。当時は、インターネットが普及する前だったので、雑誌『ぴあ』と映画館でもらえるチラシが、情報のすべてだったんです。だからその頃は、ごく普通の映画好きの大学生というか、映画館で働くところまでは考えていなかったんですけど、その翌年の1997年に、ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』(1996年)をシネマライズに観に行って。あの映画も結構ロングランしていたから(※シネマライズで33週にわたって公開されるなど大ヒットを記録した)、多分その終わり頃だったと思うんですけど、そこでアルバイト募集の張り紙を見つけて。自分が東京で初めて行った映画館という思い入れもあって「ここで働けるなら是非」という感じで応募したら、採用されたんですよね。だから、ウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』(1997年)あたりから、大学4年で就職活動を始める頃までの2年弱ぐらい、シネマライズでアルバイトをしていたことになるのかな?

シネマライズ跡地にて 現在はライブハウス「WWW」

――実際、シネマライズで働くようになって、いかがでしたか?

菊地:やっぱり、華やかでしたよね(笑)。今のミニシアターって、すごくコアな映画ファンが来ているようなイメージがあるじゃないですか。年齢層も比較的高かったりして。でも当時のシネマライズは、そういう人たちだけではなく、オシャレな人たちというか、音楽だったりファッションだったりアートだったり、いわゆるサブカルチャー全般が好きな若者たちが、すごくたくさん集まっていたんです。それこそ、俳優さんだったり芸人さんだったり、結構有名な人たちも、パートナーや後輩たちを連れて、普通にお忍びで訪れていて。当時は、シネマライズの固定ファンみたいな人も結構いたので、上映作品が変わるたびに毎回欠かさず必ず観にくるみたいな人たちも結構いました。そういう意味で、すごく「特別な空間」という感じが、当時のシネマライズにはあったんです。

――なるほど。

菊地:あと、そこで働いているアルバイトの人たちも、映画だけが好きなのではなく、カルチャー全体が好きっていう感じの人が、すごく多かったんです。映画好きはもちろんですけど、音楽をやっている人もいれば、役者をやっていた人もいたし、ファッションデザイナーを目指している人もいて。自分はただの映画好きだったけど、自分よりも遥かに映画に詳しいバイト仲間や先輩たちから、そこで映画に関するさまざまな知識を注入されつつ、それ以外の部分でも……たとえば、ファッションだったり音楽だったり、いろんなことをシネマライズの人たちから教えてもらいました。それこそ、僕はそれまでクラブには行ったことがなかったんですけど、仕事が終わったあと、バイトの先輩たちにくっついてそういうところに行って、朝まで遊んだり(笑)。だから、シネマライズでバイトをしている時期に、地方では観ることのできなかったいろいろな国の映画に触れることができたのはもちろん、それプラス、カルチャー全般の洗礼みたいなものを、そこで大いに浴びたような気がします。

――当時の渋谷には、シネマライズ以外にも、ユーロスペース(1982年開館。当時は渋谷の桜丘町にあった。2006年より現在の円山町に移転)、シネセゾン渋谷(1985年開館。2011年閉館)、ル・シネマ(1989年開館。2023年4月より休館中)、シネ・アミューズ(1995年開館。2009年閉館)など、たくさんのミニシアターがありました。

菊地:僕がシネマライズで働いていた頃は、いわゆる「招待券」っていうものを、渋谷のミニシアター同士で交換していたんです。自分が働いている映画館で上映する映画のチラシを、それぞれの映画館に置かせてもらいつつ、自分のところの招待券を向こうの映画館に渡したりして。だから、シネマライズでバイトをしていると、渋谷の他の映画館の招待券が回ってきて……まあ、バイトの先輩のほうから、観たい映画をやっている映画館の招待券を、順番に取っていくような感じだったんですけど(笑)。そういうことがあったので、シネマライズで働いていた頃は、渋谷地区のミニシアター系の作品は、わりとタダで観ることができたんですよね。それをきっかけに、渋谷の他の映画館のバイトと仲良くなったりとか。だからまあ、面白かったし、楽しかったです(笑)。

――渋谷の各劇場間で、それぞれのトップはもちろん、バイト同士の交流みたいなものもあったんですね。

菊地:そうですね。当時、渋谷にあったミニシアターは……もちろん、競合ではあるんですけど、シネマライズに限らず、それぞれの映画館で、明確なカラーみたいなものがあったじゃないですか。日本のインディペンデント映画はもちろん、イランのアッバス・キアロスタミや、フィンランドのアキ・カウリスマキなど、それまであまり知られてなかった国々の映画を積極的に紹介していたユーロスペースを筆頭に、アジア系の映画に強かったシネ・アミューズしかり、当時のセゾンカルチャーとリンクしていたシネセゾンしかり。あとル・シネマも、フランス映画に強かったりとか、そういう特徴があって。それぞれの映画館がチョイスしてくる映画の雰囲気が、その映画館のカラーを自ずと醸し出していくようなところがあったんです。そういうのって、あの時期の渋谷特有だったのかなって、今考えると思いますよね。

渋谷ユーロスペースロビーにて 「監督」になってから菊地監督もお世話になっている劇場

――なるほど。渋谷の各映画館が、それぞれのカラーを出しながら共存・繁栄していた?

菊地:そうですね。あと、それぞれの映画館で、配給会社の色みたいなものもありましたよね。僕の中では、シネマライズと言えばアスミック・エースが多かった印象があるし、シネ・アミューズだったらプレノンアッシュのイメージがあって……あと、ユーロスペースとシネセゾンは、自分たちで配給もやっていたじゃないですか。ただ、カラックスの『ポンヌフの恋人』(1991年)や『ポーラX』(1999年)のように、ユーロスペースが配給していても、集客が見込めるものは、敢えてシネマライズで公開したりして。というのも、シネマライズは300席ぐらいあったから、当時の渋谷のミニシアターでは、いちばん大きい劇場だったんですよね。そうやって、それぞれが競合しつつも、ミニシアター文化全体をみんな盛り上げていこうっていう機運みたいなものが、当時の渋谷にはあったような気がします。

――新宿や池袋、あるいは日比谷や有楽町など、映画館の多い街は他にもありますけど、それらの街と比べて、当時の渋谷は何が違っていたのでしょう?

菊地:そうですね……新宿の映画館はもちろん、アテネ・フランセ文化センターや池袋の文芸坐などの名画座も当時からあったし、僕も通っていましたけど、そっちに流れると、当然もっとコアな映画の人たちが集まっていて、ちょっと怖かったというか(笑)。そういう意味で、当時の渋谷は、ある種の「敷居の低さ」みたいなものが、多少あったのかなって思います。地方から東京に出てきて、最初にシネマライズに入るときこそ、ちょっとドキドキしましたけど、何も考えずに飛び込める懐の深さみたいなものも、そこにはあって。何かいろいろな意味で大らかだったというか、誰でも入れる気軽さみたいなものが、当時の渋谷にはあったような気がします。

――新宿や池袋などに比べると、歴史的にも渋谷は「若い」街だったわけで……。

菊地:そうですね。そのあたりが、当時の渋谷はちょっと違ったんですよね。バブルはもう弾けていましたけど、その残り香みたいなものは、まだちょっとあったというか。カルチャー全般に対して、若者たちがすごく積極的だったんですよね。それこそ、80年代のニューアカデミズムーー蓮實重彦さん、柄谷行人さん、浅田彰さんたちの批評は、当時のカルチャー好きとしては、触れていて当たり前みたいな感じがあったりして。今は、インターネットやSNSが一般化したのもあって、そういうものが細分化して、それぞれコアなところで分かれている感じがあるじゃないですか。でも当時はまだ、いろんなものがフラットに並んでいて……それらのものを、まんべんなく摂取するのが当たり前みたいな空気があって。渋谷の街にいるような人は、特にそういう感じがありましたよね。

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