『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が支持された理由 内包された哲学性と社会性

 そしてもう一つ、本作の反応で無視できないのは、思想的、社会的テーマを意図的に排除して娯楽表現に振りきったからこそ、支持や人気の獲得に繋がったという見方である。もちろん、本作が娯楽的な内容であることはもちろんだが、本当に思想性、社会性がそんなにも欠如しているのだろうか。

 ゲーム同様にファンタジー世界のなかだけで物語が終始してしまえば、その見方も理解できる。だが本作には、ゲームにはない現実的なオリジナル設定も用意されているのである。マリオとルイージの兄弟は、イタリア系の住民が多い、ニューヨークのブルックリンに住む、貧しい配管修理業者なのである。兄弟は独立し、蓄えの多くを広告費にあてて一発逆転を狙うものの、反響はほとんどなく、同業者からバカにされる始末だ。ちなみに、ゲームシリーズの生みの親である宮本茂は、その設定に近い背景を考えてはいたのだという。

 社会人になっても実家暮らしで、家族に気を遣いながら食事をとるシーンもある。これはまさに、ジョン・トラボルタ主演の青春映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)の一幕そのものであるといえる。トラボルタ演じる、主人公トニーは、同じくブルックリンに住むイタリア系アメリカ人の若者であり、ペンキ屋で働きながら、やはり実家でうるさく文句を言われ生活している。この映画は名作として広く知られているため、ここが偶然同じような描写になってしまったとは考えにくい。意図的に参照、引用していると考えた方が自然なのである。問題は、なぜ本作が『サタデー・ナイト・フィーバー』を想起させるシーンを用意したのかということだ。

 『サタデー・ナイト・フィーバー』の主人公トニーは、そんな生活のなかで、土曜の夜に目一杯のオシャレをして、ディスコに行って踊りまくることだけが唯一の希望なのである。そのときトニーは現実を忘れて輝き、熱視線を浴びてキングになれるのだ。本作のマリオ兄弟もまた、同様に厳しい現実を離れ、異世界でスーパーパワーを得てヒーローになる。そして、マリオには魅力的な姫まで目の前に現れてくれるのである。まさに虫のいいファンタジーだが、マリオが厳しい現実にあえぐ姿をあらかじめ見せることで、本作は観客に共感を与えるとともに、『サタデー・ナイト・フィーバー』同様に、主人公を二つの境遇に分裂させ、そこに落差を作っていると考えられる。

 それでは、本作のマリオやルイージと、『サタデー・ナイト・フィーバー』のトニー、そして一般的な観客という三者の間に共通点があるとすれば、いったい何なのだろうか。それは、それぞれ異世界、ディスコ、映画やゲームなどを利用することで、“厳しい現実と甘い非現実の間を行き来している”という点である。

 とくに現在は、ゲームファンならずとも、スマートフォンの普及によって、数多くの人々がゲームに触れる環境が整っている。最近も、ゲーム分野を分析する企業が、ゲーム人口が37億人を突破していると発表しているように、業界の規模は大きくなり続けているといえる。人々は、日々時間を割いて、束の間現実を忘れてゲームの世界に身を委ねるのだ。

 とくに若年層のなかにはゲームに夢中になり過ぎて、依存症になるケースも珍しいことではなくなっている。しかし、なぜそんなにも一生懸命にゲームをプレイし続けるのか。現実から逃避するという動機ももちろんだが、例えば、そこにはさらに、自分が生きる上での成功体験を積み上げたいという願望が重ねられている場合が少なくないのではないだろうか。ゲームをすることで、“課題が与えられ、それをクリアーする”といった、現実の擬似的なプロセスが、気軽に体験できるのである。

 そうだとすれば、ゲームに熱中することで人生にポジティブな影響を与えることもできるはずだ。本作のマリオやルイージが、現実の世界で失敗を続け、ますます自信を失っていくなかで体験した、ファンタジー世界での冒険は、彼らに現実世界で活躍する勇気を与えることになる。マリオがぼろぼろになりながらも、現実世界に現れたクッパに立ち向かう場面は、まさにそれを表現したものだろう。

 ただ任天堂としては、現実の世界にゲームで得たものをプレイヤーが活かすことを歓迎しこそすれ、そこでゲームを卒業してしまっては困るわけで、だからこそ本作のラストは、マリオたちが現実世界で成功して落ち着くといったところには着地しなかったのではないか。

 ゲームで得たものを、現実に還元するという内容を描くという意味では、ゲームファンの観客の多くから、いまでも蛇蝎のように嫌われている描写のある、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(2019年)が挙げられるだろう。この作品では、やはり現実と非現実との関係を描くという意味において、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』と大きな違いはない。ただ、その演出の仕方、語り方の差異が、ゲームファンの逆鱗に触れるかどうかに影響したのだと考えることができる。

 詳しい言及は避けるが、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の展開はまさに、ゲームがロード画面などで暗転したとき、自分の顔がディスプレイに反射してしまったときの、一気に現実に引き戻される瞬間に酷似したものだったといえる。ゲーム好きの観客にとって、わざわざ鑑賞料金を払って映画館に観にきてまで、そんな仕打ちをしてこなくてもいいのではないかという心理になってしまうのは、無理もないことだといえる。興味深いのは、おおまかなメッセージ自体は近いものがあるのに、その見せ方が違うと、受け取られ方も大きく変わるということである。

 このように本作は、“ゲームをプレイするということは何なのか”という、哲学的な部分を突きつめ、そこにポジティブな面を見出すことで、観客に夢を与えながら現実での取り組みも応援するというバランスになっていると考えられる。そこにはしっかりと思想が込められていて、社会性も備わっているのである。ただし、本作は任天堂が製作において「イルミネーション」のパートナーとなり、マリオの生みの親である宮本茂も参加していることで、ストーリーにネガティブな部分があまり反映されず、かなり苦味の少ない仕上がりになったことは否めない。

 ディズニーやピクサーが目指してきたのは、子ども目線でも大人目線でも楽しめる作品づくりだった。幅広い多くの観客に届けるものとして、ある程度複雑な内容や、人生のビターさを感じさせる、暗いテーマや描写を扱うことが珍しくなくなってきている。

 対して「イルミネーション」は、もちろん、そのような性質の作品を手がけながらも、一方でストーリーやデザインを、より低年齢層向けに絞るという戦略をおこなってきている。大人と子どもを別々の視点でそれぞれに楽しませるというより、子どもは子どもで、大人は童心に返ってもらって、同じステージでスラップスティックな娯楽を楽しんでもらうという姿勢が強いのである。その意味では、今回の「イルミネーション」と任天堂のコラボレーションは、理にかなっていたといえよう。

 そして、むしろマリオのゲームシリーズを、子どものときにプレイしていた大人は、子どもを楽しませるような中身であることが、かえって嬉しかったのではないか。それが、当時の郷愁を誘い、より感動が与えられるという結果に繋がったのではないだろうか。この興行の面での驚くべき成功は、このように複数の歯車が噛み合ったことで達成されたというのが、真相だと考えられる。

 ただ勘違いしてほしくないのは、このやり方が、作品を成功へ導く唯一の方法というわけではないということだ。ディズニーやピクサーのようなアプローチでも、また違ったマリオの可能性を掘り当てるチャンスがあったはずなのである。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が成功作であることは疑いようもないが、同時にそのかたちが、数ある可能性、製作手法の一つに過ぎないということもまた、理解しておく必要があるだろう。

■公開情報
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』
全国公開中
声の出演:クリス・プラット、アニャ・テイラー=ジョイ、チャーリー・デイ、ジャック・ブラック、キーガン=マイケル・キー、セス・ローゲン、フレッド・アーミセン、ケヴィン・マイケル・リチャードソン、セバスティアン・マニスカルコ
脚本: マシュー・フォーゲル
監督:アーロン・ホーヴァス、マイケル・ジェレニック
製作:クリス・メレダンドリ(イルミネーション)、 宮本茂(任天堂)
日本語版吹替声優:宮野真守(マリオ)、志田有彩(ピーチ姫)、畠中祐(ルイージ)、三宅健太(クッパ)、関智一(キノピオ)
配給:東宝東和
©︎2023 Nintendo and Universal Studios
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