今泉力哉は「好きとは何か」を問い続ける 『ちひろさん』が描く必要だった時間

ちひろさんに憧れながら、自分の言葉を獲得するまでの映画

 映画を観ていると、ちひろさんみたいになりたい、という憧れと、自分の言葉を大事にしよう、という自己肯定が同居していく感覚を覚える。思えばちひろさんが言う「同じ星の人」というのは、自分ひとりで思いついたのではなく、風俗店で働いていたときにお客さんがふと口にした話が元になっていた。他者とは分かり合えないけど、みんなそれぞれ違う星からやってきた人間だと思えばしょうがないと思える。ちひろさんがオカジ(豊嶋花)にもその話をすると、彼女はこう答えた。「でも、世界のどこかにはいますよね? 同じ星の人、いつか会えますよね?」。そんないくつもの大事な時間を経て、自分を生きやすくする言葉が、どんどん磨かれていく。

 冒頭でちひろさんの自由奔放な姿を盗撮するオカジの姿を思い出してほしい。これは、ちひろさんみたいになりたい、と憧れている(ように見える)オカジが、自分の言葉を獲得するまでの映画でもあるだろう。食卓で一言も不満を漏らせないオカジが、友達に流されて自分の意見を閉じ込めていたオカジが、その怒りや不満を錬磨し、言葉をこの世界に突きつけてみる。お母さんがつくったお弁当を食べられなくても、学校に行くことができなくても、異性愛規範に基づくような恋愛ができなくても、自分が信じた言葉とそのきっかけを与えてくれた大事な時間があればそれで生きていける。

 ちひろさんそのものにならなくてもいい。オカジと同じように、私たちはちひろさんやこの物語から言葉を受け取り、自分の中にある感情とともに磨き上げていくことができる。自分にとっての必要な言葉と、必要だった時間を光に代えて、昼も夜も真っ暗な道を照らしながら歩いていく。

 今泉映画において登場人物たちが「好きとは何か」と考え、自分だけの答えを探す行為は、自分らしく生きていくためのひとつの手段だ。ジェンダーやセクシュアリティが画一的ではあり得ず、人を傷つける言葉や情報があふれる世界にあって、この優しい物語が必要な人の心を癒してくれることを願う。

■配信・公開情報
『ちひろさん』
Netflixにて全世界配信中
新宿武蔵野館にて公開中
出演:有村架純、豊嶋花、嶋田鉄太、van、若葉竜也、佐久間由衣、長澤樹、市川実和子、鈴木慶一、根岸季衣、平田満、リリー・フランキー、風吹ジュン
原作:安田弘之『ちひろさん』(秋田書店『秋田レディース・コミックス・デラックス』刊)
監督:今泉力哉  
脚本:澤井香織、今泉力哉
制作プロダクション:アスミック・エース、デジタル・フロンティア
配給:アスミック・エース
製作:Netflix、アスミック・エース
©︎2023 Asmik Ace, Inc. ©︎安田弘之(秋田書店)2014
公式サイト:https://chihiro-san.asmik-ace.co.jp/

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