『犬王』と『平家物語』を貫く“語る者”たちの存在 世界の無常に抗い続けるために

 湯浅政明監督の最新映画『犬王』を観ると歴史がわかる。

 ただ、歴史の事実がわかるわけではない。あの時代にロックはなかったはずだ。その意味では、全く正確性を欠くタイプの歴史劇である。

 しかし、そういうタイプの作品だからこそ伝わる歴史の重要な側面がある。それは、歴史とはいまだわかっていないことの方が多く、勝者によって多くのものが握りつぶされてきた、という事実だ。私たちの知らない歴史があり、「もうしかしたらこうだったのかもしれない」と想像力を持つことは、事実を知ることと同じくらい大切だとこの映画は教えてくれる。

『犬王』(c)2021 “INU-OH” Film Partners

 本作は、古川日出夫の小説を原作にしている。古川氏は自ら手掛けた『平家物語』の現代訳に連なる物語として本作を作り上げた。『平家物語』は、「諸行無常、盛者必衰の理」が示す通り、不滅の存在はなく、万物は流転し絶えず変化、消滅を繰り返すものだということを切々と日本人に伝え続けてきたものだ。その変化の中で多くのものが失われ、後世に知られることなく消えていった。

 本作の主人公・犬王は実在した猿楽師である。一時は大変な人気を誇っていたらしいということはわかっているものの、どんな演目をやっていたのかも含めてその素性はほとんど知られていない。万物の流転の中で消えていった稀代の芸能者だ。

 湯浅監督は、この犬王なるなにもわからない人物をいかに想像し、造形したのか。それはまさにアニメーションの本質に関わる方法で、なおかつ元となった『平家物語』のあり方ともつながるようなやり方で具現化した。

“平家物語”は変化し続ける物語

『犬王』(c)2021 “INU-OH” Film Partners

 『平家物語』とはどのような時代に生まれ、日本の歴史にとってどんな意味を持つ物語だろうか。

 『平家物語』は軍記ものだが、奇妙なほどに勇ましさを感じさせない。そもそも敗者の物語である。負ける側のかわいそうな物語がこれほど長い間、この国の庶民に普及していることに、筆者としては日本人の特異な心象のあり方を感じてしまう。というより、この物語が広く普及したことが日本人独特の「判官びいき」的な心情を形作った可能性はないだろうか。

 『平家物語』現代語訳を個人編集した池澤夏樹は、同書の解説でそれ以前の文学と比較し、『古事記』は天皇と皇族関係者のみ、『源氏物語』も宮中の人々に限られていた登場人物が一気に広がり、混沌とした社会の全体像が見えてくるようになったと書いている。『犬王』原作の文庫版の解説では「階級を超えて民衆が歴史なるものを共有したのは、『この国』という概念を持ったのは、これが最初ではなかったか」と記している(※1)。言うなれば、日本初の大衆文学といったところだろうか。

 『平家物語』がそれほど広く民衆に広がったのは、これが口承文学であるというのが大きいのだろう。琵琶法師たちによって全国津々浦々で語り歩かれたものであるから、文字が読めない人にも伝わったことだろう。現代語訳を担当した古川氏は『平家物語』の「読者とは聴衆だった」と前書きに記しているが、語り物ゆえの変化とダイナミズムにこの作品の本質がある。

 諸国を渡り歩く琵琶法師たちが新たな平家の物語を発見する度に誰かが書き加え、次第に変わっていったのも『平家物語』の大きな特徴だ、特定の作者のビジョンで固定化されず、流動的に変化し、異本もやたらと多い。言い換えると、『平家物語』そのものが不変の形を持たずに流転する性質を持った作品なのだ。

『犬王』(c)2021 “INU-OH” Film Partners

 新たな物語『犬王』を古川氏が書いたことは、『平家物語』のこの性質に忠実だとも言える。かつて琵琶法師たちがそうしたように、新たな物語を加えて成長させたのだ。『平家物語』の前書きに古川氏が自ら「平家は成長する物語だった」と書いているが、それを自ら実践したのが『犬王』なのだ。

 そんな流転して常に変化する物語の最新版を、絶えず形を自由に変化させる可塑的アニメーションの魅力を突き詰める湯浅政明監督が手掛けるのは、運命にも近い必然性があったと言えるのではないか。

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