ルチオ・フルチが描き出す逆説的な“美” 『サンゲリア』『ルチオ・フルチの恐怖!黒猫』
ホラー映画界の“マエストロ”として知られる、ルチオ・フルチ監督。その代表作の一つであるゾンビ映画『サンゲリア』(1979年)と、怪奇小説の巨匠エドガー・アラン・ポーの小説を自由な発想で映画化した『ルチオ・フルチの恐怖!黒猫』(1981年)のリマスター版が、Blu-rayで発売される。
人間の血をすすり肉を喰らう、生きた死体「ゾンビ」を描いたクリエイターといえば、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)、『ゾンビ』(1978年)などで、ホラー映画の定番ジャンルとなる「ゾンビ映画」を確立した、ジョージ・A・ロメロ監督が最も有名な存在だろう。
『ゾンビ』では、生前の習慣からゾンビたちがショッピングモールに集まってくるという設定で、大量消費社会のなかで自身の価値観を失った現代人の姿が“生ける屍(しかばね)”としてアイロニックに描かれた。そして、ゾンビの群れが世界を席巻することによって、“死”が新たなかたちの“生”にとって変わり、ゾンビのおぞましさ、あさましさが、ある種の神々しさへと反転する演出がなされている。
本作『サンゲリア』(原題:ZombieまたはZombi2)は、そんなロメロ監督の『ゾンビ』(原題:Dawn of the Dead、イタリア公開タイトル:Zombi)が世界的にヒットする以前から製作が始まった。だが、『ゾンビ』の成功にあやかろうとしたプロデューサーの意向によって、その関連作を想起させるような、「Zombi2」というタイトルが、元の作品の許可を受けずに付けられてしまう。しかし、ルチオ・フルチ監督は、あくまで本作は独立した自身の作品であると主張。最終的に、海外向けタイトルは「Zombie」と表記されるようになったので、これはこれで紛らわしい。
とはいえ、やはり本作を世界的なスケールで売りたいプロデューサーの指示によって、カリブ海の島を舞台にした内容に、ニューヨークでの場面を加えることとなったのも確かだ。この点においては、たしかに内容的にも、アメリカを舞台としたロメロ版『ゾンビ』からの影響があるといえる。このあたりが、『サンゲリア』の成立についてのややこしい部分だ。
ちなみに、「サンゲリア」という日本版のタイトルは、日本の配給によるものであり、“流血”を意味するイタリア語“サング”と、イタリアのホラー映画『サスペリア』(1977年)のニュアンスを合わせた造語を用いることとなったという。
さて、本作の惨劇の舞台がカリブ海の島であるのは、なぜなのか。それは、カリブの国ハイチが「ゾンビ」という概念が生まれた場所であるからだ。カリブ諸国には、アフリカの人々が奴隷貿易によって売られた歴史があることで、アフリカ系の民族が多く存在する。そこでアフリカの宗教がキリスト教カトリックの思想と混ざり合うことで、独特の民間信仰「ブードゥー教」が生み出された。その教えのなかに、死体を蘇らせるという考え方があるのだ。
本作の登場人物であるアメリカ人たちは、このカリブの島で、ブードゥーの呪いであるところのゾンビの群れに襲われ、必死に逃げ回ることとなる。「ゾンビ」のルーツに迫り、カリブのゾンビたちが描かれるという点で本作の内容は、ある意味“聖地巡礼”といえるのではないか。
『サンゲリア』の特徴は、『ゾンビ』が社会性にフォーカスしていたのに対し、あくまで個人的な生理や不安をメインにすえて、ゾンビが人を襲うグロテスク表現を、娯楽的かつ美学的に追求したという点だ。それがホラー映画として明快な面白さにつながり、ロメロとは異なる方向で、現在の評価に寄与することとなったといえるだろう。皮膚や肉の腐乱を克明に表した特殊メイクや、地中から現れるゾンビの、虫に覆われたおぞましい姿、そして人体が損壊されていく様には、フルチ監督の異様なこだわりが見てとれる。
このように目を背けたくなるような表現を、フルチ監督は「芸術」と呼んでいた。その従来の価値の転倒は、シェイクスピアの戯曲のなかに登場した、「きれいはきたない、きたないはきれい」という言葉を想起させる。おぞましさの極地には、逆説的な“美”が存在するのである。
そして言及せずにいられないのは、カリブの海中で巨大なサメとゾンビが格闘するというシーンである。ゾンビ映画ジャンルのなかでも、これほど意味の分からない独創的な場面も珍しいだろう。この衝撃の対決は、スティーヴン・スピルバーグ監督の大ヒットスリラー『ジョーズ』(1975年)の要素をとり入れたといわれていて、映画業界の商魂のたくましさを感じさせる。とはいえ、この水中のシーンは、本物のサメと人間を使った危険な撮影によって生み出されている。現在の映画では観ることのできないだろう、この凄まじい映像を目にするだけでも、本作を鑑賞する価値があるのではないだろうか。