菅田将暉、『鎌倉殿の13人』の“残酷な喜劇”を牽引 義経が愛すべきやっかいな男に

 喜劇と悲劇は紙一重とは言うが、三谷幸喜が脚本を手掛ける大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合)を観ていると、これが喜劇なら、なんと残酷な喜劇なのだろうと思わずにはいられない。魅力的な俳優たちによって演じられる、個性豊かなキャラクターたちの人間模様を笑って見ていたら、あっけなく、理不尽に訪れる彼らの「死」と向き合うことになるからだ。

 例えば、オリジナルキャラクターである善児(梶原善)は、その存在が、無常な「死」そのものであるかのように黙々と、宗時(片岡愛之助)をはじめとする多くの登場人物たちを葬っていく。身内同士の争いごとに仲裁に入る大物といった感じで登場した大庭景親(國村隼)は、第10話であっけなく首のみの姿となり、木に吊るされている。「婆羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」とは、『平家物語』の一節だが、「美しさ」や「儚さ」といったフレーズを対極に置き、喜劇的かつリアリティーを重んじる形で源平合戦を源氏側から描いている本作もまた、「盛者必衰の理」、無常なる世の在り様を示している。

 主人公・義時(小栗旬)が、個性豊かな上司・同僚・部下たちに振り回されつつ、諸々の雑務を取り仕切るいわば中間管理職ポジションとして描かれていることも、平安・鎌倉時代という、戦国・江戸時代ほどは馴染みのない時代を親しみやすく感じさせる、共感ポイントの1つだ。頼朝(大泉洋)を巡る身内同士の「大いなる小競り合い」から始まった物語は、時政(坂東彌十郎)と義澄(佐藤B作)のじゃれ合いのようなケンカによる水の波紋が起こした水鳥の羽音によって勝敗が決したり、占い任せで人の生き死にが決まったりと、本当に冗談のような小さな出来事の積み重ねによって、時代や、人々の命運が左右される構造を見せ続ける。また、八重(新垣結衣)、亀(江口のりこ)といった史実上限られた記載しか残されていない登場人物たちを活かすことによって、政子(小池栄子)、りく(宮沢りえ)ら頼朝・北条家を巡る女性たちの戦いがさらに濃厚な展開を見せているのも興味深い。

 そんな中、一際異彩を放つのが、菅田将暉演じる源義経である。目を異様に輝かせた、無邪気ゆえに怖すぎる男を、菅田が見事に演じている。義経といえば、大男・弁慶とのエピソードはじめ様々な伝説に彩られた人生は歌舞伎の演目にもなり、大河ドラマでも、数奇な運命に翻弄された「悲劇のヒーロー」として、古くは尾上菊之助(七代目・菊五郎)、近年では滝沢秀明、神木隆之介らが演じてきた。本来なら幻想的で儚いイメージがつきまとう、美しき武将である。アニメ『平家物語』(フジテレビ系)においても、義経は、見目麗しい青年として描かれていた。

 対する菅田義経は、初回の顔見せ登場の段階から、馬の上で逆立ちする「逆さま」の状態で視聴者の前に姿を現わしたことからもわかるように、常に我々の抱いている「義経観」の逆を行く。

 彼の行動パターンは、子供のそれである。遅れてきた兄・義円(成河)のことを頼朝が買っているのを見て取るや嫉妬に駆られるのは、まるで親が自分そっちのけで生まれたての弟を可愛がっているのをよく思わずにむくれる兄の図だ。子供なら「困った子ね」で済むが、天才的な軍略の才を持った男がそれをする場合、罪のない兄を言葉巧みに操って、造作なく死地に赴かせてしまう。「戦さ以外のことはできないし、やりたくない」とごねるのもまた、「算数って、国語って何の意味があるの」とごねる小学生と重なってくる。加減を知らず、組織にありがちな忖度や「形式だけ」を許さず、それは時に事態を思わぬ方向に動かしてしまう。

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