菊地成孔の映画蔓延促進法 第2回(中編)

菊地成孔の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』評(中編):映画が「ジャンル」自体をチェンジしてしまう時に発生する「怖さ」の質と量

さて本作は

 前編で繰り返したように、<文芸作><考えさせられる人間ドラマ>のていで進み、<美少年耽美スリラー>で終わる。前述2作のような、「途中から一気に別次元へ」という形とは違う、「誰もが、どこで次元の移動に気がつくか共有できないが、明らかに次元が変わる」という点が本作の特異点だが、筆者は本作を(極端に誇張するならば)、『サイコ』の変形、異端的な後継として、『デス・プルーフ』と並ぶクオリティの、しかし全く観終え感が違う成功作としていいと思う。「ストーリ自体の怖さ+ジャンルが変わるという怖さ」が共存しながら、ある種の格調も備えている。繰り返すが、本年度米国アカデミー賞の主要部門全てで本命と目されている。

 しかし、前編冒頭で書いたように、本作の、「怖さ」の質は、『サイコ』をも超え、冒頭に書いたように、「ジェーン・カンピオンの天然=最初から最後まで一貫して文芸作のつもり」によるものではないか?という疑念が、何度観終わっても(筆者はこの記事のために本作を4回観直した)完全には払拭できない点にある。ここが凄いし、新しい。

 何せ「間違いなく別の映画になったのだけれども、どこからそうなったか」が分からない(人によって違うであろう)、という、ヴァニシング・ポイント(消失点)の存在が横たわっている。

 そこから演繹的に、「ひょっとして、ジャンルなんか変わってないのかもしれない」という、おぞましいほどの疑念が加わり、「怖さ」の質に、ある種の重い厄介さが加わる。「悪夢から覚めると、そこがまた悪夢だった」ということを、具象的に描いた映画はいくらでもある(今家クラシックスである『エルム街の悪夢』等々)。『サイコ』『デス・プルーフ』は、それを構造的にがっちりやった構築美の産物である。に対して、本作の震えるような格調と怖さの質は、本作全体がそうした悪夢的な構造を有しているからだ、と仮設できる。

 最終回である次回では、<ネットにあらゆるネタバレが既に横溢している><米国アカデミー賞の授賞式が近い>という現状を踏まえ、時間軸に沿って、具体的/直接的に物語を追いながら、どこにジャンルの変換点があり、どうしてそこまで変換点が見えなかったのか?を考察しながら、「ジェーン・カンピオンの天然」である可能性を探ることにする(それに際し、筆者は批評の素材に、<作者の発言>を使用しない。作者は非常に無責任だからである=インタビュー記事があっても読まない)。

 前編で繰り返し述べたように、その元手には、「カウボーイカルチャー」という、合衆国史上、かなり曖昧で強烈な文化に関する、極めて現代的な「見直し」の視点と、高い時代考証性(それは、「登場するグランドピアノのメーカー名のアップ」といったレベルにまで、周到すぎるほど張り巡らされている)に満ち満ちて、<全く遊びがない現代西部劇>としての完成度が前提になっている。構築性が硬ければ硬いほど、次元が移動するショックは大きいのだ。この点も可能な限り検証する。

 

■配信情報
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
Netflixにて独占配信中
監督:ジェーン・カンピオン
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィー
KIRSTY GRIFFIN/NETFLIX (c)2021 Cross City Films Limited/Courtesy of Netflix

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