宇野維正×森直人が解説 エリック・ロメールが円熟に達した「四季の物語」シリーズの凄み

 セレクトされた良質な作品だけを配信する、ミニシアター系のサブスク、【ザ・シネマメンバーズ】。12月はエリック・ロメール監督の「四季の物語」シリーズを日本初独占配信開始。これまで配信では観ることができなかった『春のソナタ』『冬物語』『夏物語』『恋の秋』をいつでも楽しむことができるようになる。

 今回の配信を機に、前回(エリック・ロメール作品はなぜずっと愛され続けるのか 宇野維正×森直人が魅力を語り合う)もロメール作品の魅力を語った映画・音楽ジャーナリストの宇野維正、映画ライターの森直人が、「四季の物語」シリーズを改めて振り返った。

「四季の物語」シリーズはエリック・ロメールの完成期

――前回に引き続き、今回はロメール最後の連作シリーズ「四季の物語」――『春のソナタ』(1990年)、『冬物語』(1992年)、『夏物語』(1996年)、『恋の秋』(1998年)の4本について、いろいろと語っていきたいのですが、いわゆる「恋のさや当て」的なモチーフは変わらないものの、「軽さ」だけではない、ある種の「凄み」と「奥深さ」が、このシリーズにはあるように、個人的には思っていて……。

森直人(以下、森):そうですよね。それは僕も思います。キャリア的にも完全に成熟期に入っているし、いちばん充実しているシリーズなんじゃないでしょうか。

宇野維正(以下、宇野):そうだね。ある種の完成期と言っていいと思う。

森:だから、「四季の物語」の総論としては、やっぱりそこに尽きると思っていて。この4本は、ほぼ90年代の作品で、そのあと00年代に入ってから、ロメールは『グレースと公爵』(2001年)、『三重スパイ』(2004年)、『我が至上の愛~アストレとセラドン~』(2006年)という3本の長編を撮って、その生涯を終えるわけですけど、その3本は、いずれも時代ものというか、特に『グレースと公爵』と『我が至上の愛』は完全にコスチュームプレイの歴史劇なんですよね。だから、同時代の人々の日常を描く監督としてのロメールの完成期は、まさにこのシリーズなんだと思います。

宇野:えっと、前回話した『木と市長と文化会館/または七つの偶然』(1993年)とか『パリのランデブー』(1995年)は、どこに入るんだっけ?

森:その2本は、『冬物語』と『夏物語』のあいだに入るんですよ。

宇野:あ、そっか。じゃあ本当に『恋の秋』が、あの作風としては最後の作品になるんだ。

森:そうなんですよ。「喜劇と格言劇」シリーズのあと、「四季の物語」シリーズに入る前に、前回の話にも出てきた『レネットとミラベル/四つの冒険』(1987年)だったりシリーズ以外の作品もちょいちょい作るんだけど、いわゆるロメールとして一般的にイメージされるような作品を撮るのは、『恋の秋』が最後なんですよね。

宇野:なるほどね。今、ちょっと話に出てきたように、ロメールはこの「四季の物語」を含め、それまでにも「六つの教訓話」、「喜劇と格言劇」、そしてこの「四季の物語」と、シリーズものを結局3つやっているじゃないですか。長年のロメールのファンにとってそこはもう引っかかるポイントじゃないんだけど、改めて「それってどうしてなの?」って思う若い観客はいるだろうね。

『夏物語』(c)Les Films du Losange

森:「連作」スタイルが好きというのは、やっぱりあったようです。「四季の物語(Les Contes des quatre saisons)」もそうですけど、彼は「コント(conte)」という言い方をするじゃないですか。日本で言うところの「コント」の使い方とはちょっと違って、「小話」「短い物語」という意味なんですけど、そういう「小さな物語」を自分は撮るんだという自意識が彼の中にはあったのかもしれません。だから、基本的には短編作家に近いのかもしれないですよね。

宇野:『パリのランデブー』とか、まさに短編3本のオムニバスだったもんね。

森:そうそう。『レネットとミラベル/四つの冒険』も、タイトルの通り4つの物語からなる映画だったし、『木と市長と文化会館/または七つの偶然』は、7章立ての話になっていて。自分はコントを撮る監督だという自意識があったからこそ、一作一作もそういうニュアンスを帯びるし、一作の中でもオムニバスっぽくなったりする。

宇野:そういう意味では、確かに本質的には短編作家なのかもしれないよね。だけど、監督としての手腕がありあまり過ぎるというか、どんなに平凡なシチュエーションであってもいくらでも撮れちゃうから、結果的にそれが長編になってしまうという(笑)。そう考えると、非常によくわかる。

森:前回の対談(エリック・ロメール作品はなぜずっと愛され続けるのか 宇野維正×森直人が魅力を語り合う)のときに宇野さんが、「ロメールは、デビュー作の『獅子座』(1959年)の時点で、すでに完成されている」っておっしゃっていたじゃないですか。僕も本当にその通りだと思います。最初から自分のスタイルややりたいことが確立されていて、あとはそのバリエーションを増やして映画を作っていくから、自然と連作のような感じになっていくし、あらかじめシリーズものという枠組みを作ったほうが、本人としても撮りやすかったんじゃないですか。

宇野:当然、そこには古典文学や演劇からの援用もあるわけですよね。

森:そうですね。今回の『冬物語』は、それこそシェイクスピアの『冬物語』に発想を得ているし……。というか、『春のソナタ』のシューマンやベートーベンもそうですけど、演劇や文学や音楽など芸術全般に関する知識や教養において、やはりロメールは別格的な存在なので。教養が、ロメールは本当に分厚いんですよね。『春のソナタ』ではなんでもない食事のシーンで哲学談義になって、カントやフッサールの超越論について話してたりする(笑)。

『春のソナタ』(c)Les Films du Losange

――前回の話にも出てきましたけど、もともとロメールは、古典文学の教師だったわけで。

森:そうなんですよね。小さいけれど良質な物語をたくさん作っていくという点においてもバルザックとかに近いのかもしれない。まあ、それもまた、ヨーロッパの芸術の伝統みたいな感じなのかもしれないけど。

宇野:そうだね。ロメールの映画に関しては、他のヌーベルバーグの作家と比べて「観やすさ」や「軽さ」みたいなものが称揚されることも多いけど、そのベースにあるのは、やっぱり文学とか演劇とか、芸術全般にわたる知識や教養で。フランスに限らず、ロメール以降に出てきた「ロメールっぽい」と言われているような作風の映画作家とロメールの決定的な違いはそこですね。

森:ああ、そうかも。それはあると思います。

>>「ザ・シネマメンバーズでロメール作品を観る」

――今回「四季の物語」シリーズの4本を観直して、僕もそれは改めて思いました。やっぱり、教養の深さが違うなと。

宇野:まあ、果たして現代の映画作家にそういうものが求められているのかどうかというのはあるんだけど……。映画の中で、古典文学を引用したり小道具に使ったりするのって……そうとう周到かつ狡猾にやらないと付け焼き刃感から逃れられないというか。特に日本映画の場合、大概ちょっとスベっている感じがしちゃうじゃないですか。そもそもレファレンス先がヨーロッパのものなので、そこに必然性を持たせるのが難しいんだろうけど。特に、日本映画の場合は。

森:わかる(笑)。

宇野:個人的には、そういうものを観ると、むしろ共感性羞恥が先に来てしまう(笑)。

森:でも、逆に言うと、日本の作家でそういったちょっとペダンティックなことをやるのって、やっぱりこういうフランス映画の影響だったりするわけですよね。

宇野:そうなんだろうけど、それがハマっている日本映画って例えば何か思い浮かびます?

森:ひょっとすると、濱口竜介監督とかは、今、それをガチでやろうとしているのかもしれないですけど。

宇野:ああ、そうかもしれない。短編集ということで、作風としては『偶然と想像』(2021年)の方がロメールっぽいって思われがちだけど、村上春樹の原作にチェーホフやベケットまで盛り込んだ『ドライブ・マイ・カー』(2021年)の方がより本質的にはロメール的なヨーロッパの知識人の映画っぽいと言えるかもしれない。そう考えると、あの作品の世界的な評価の高さもちょっとわかるというか、そういう野心を持った作家が世界的にも今あまり他にはいないのかもね。いずれにせよ、教養は映画を難解にしたり重くしたりするのではなく「軽やか」にすることもできるというが、ロメールの作品を観てるとよくわかる。

森:そうですね。チェーホフはロシアの作家ですけど、やっぱり文学や演劇の教養のベースは、ヨーロッパの文化人の間では、脈々とあるものであって。その意味でロメールの本物感は、むしろサブカルチャーが教養のベースになった21世紀に生きる我々からすると、やっぱり別格に映っちゃいますね。

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