菊地成孔の映画蔓延促進法 第1回(前編)

菊地成孔の新連載「映画蔓延促進法」スタート! 第1回『イン・ザ・ハイツ』(前編)

第1回『イン・ザ・ハイツ』(ジョン・M・チュウ監督 / 2021年7月30日公開)/ミュージカルが持つエネルギーと、移民問題が持つエネルギーの衝突とその結果(前半)

 この、最初こそスペイン語に対して英語字幕が出るけれども、途中からだんだん出なくなってしまうほどに(※注1)、ヒスパニック(※注2)と、彼らの隣人であり、傍観者である合衆国民、に対する訴求力が、世界中のどの国の観客よりも極端に高い、にも関わらず、世界市場対応として充分成立している本作は、製作者の前作に相当する『ハミルトン』、後に控えているスピルバーグ版『ウエストサイド物語』との並列関係から逃れられないだろう。テレビドラマまで含めるならば、「あらゆるマイノリティ」を扱った「学園ミュージカル」の傑作『glee/グリー』も並列関係にあると言える。

 この点を考慮に入れても、入れずとも批評は成立するだろうが、本項では関連事項として組み込むことにする。余りに精緻に組み込むと批評でなく論文になるので、適度に組み込む。という前提を予め示しておく。

 結論を先に言えば、本作は前作『ハミルトン』よりも遥かに一般性を高く設定した娯楽作であり、ミュージカルの本懐であるところの「ストーリーや演技の巧拙よりも、歌と音楽、ダンスの力で、<圧倒的>という形態の感動を観る者に与える」という目的を十分に達成している。

 筆者は前述、ガラガラのシネコンの椅子に座り、最新のドルビーシステムで鑑賞したが、コロナ禍がない世界が存在したとして、本作を「立ったり座ったりして鑑賞が可能」だったら、間違いなく、半分以上を踊りながら鑑賞せずにはいられなかったと言える。「歌わせる力」よりも遥かに「踊らせる力」が上回っているのは、後述、中米音楽の勝利と言えるだろう。ロッテントマトの平均点は10点中の8.2点、メタクリティックの加重平均値84/100、シネマスコア社はAランクを与えている。

 しかしこれは、前述、MGMミュージカル映画からの伝統と、その本懐を達成している。ということ、以上でも以下でもない。しかし本作は、その特性上、「それで充分だ」と、観客に言わせ切ってはくれない。

 それは、本来、夢物語であったブロードウエイミュージカルに、全く逆層の「リアルな移民問題」というストーリーをはめ込んだ、自己矛盾にも似たキメラであり、作用と反作用の原理を内包する。その最初の成功例が『ウエストサイド物語』であることは言うまでもない。

 初映画化が1961年(舞台版の初演は1957年)。スピルバーグによるリメイク版の公開は今年の12月10日を予定している、「移民問題の複合体、というリアルをミュージカルにした舞台の映画化作品」のクラシックスであり、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を下敷きに、悲劇に終わる、『ウエストサイド物語』は、前述、「作用と反作用」のバランスが鉄壁であり、後継作も模倣作も基本的には『glee/グリー』までない。

 それほどまでに、この形式は難しい。ミュージカル本来が持つドリーミーは、まさに「夢の様に」2時間で全てが解決するし、しなければならない。しかし「リアルな移民問題」は、アメリカ合衆国に移民(や奴隷)が存在してから今日に於けるまで未解決のままであり、未解決の永続性が固定されたまま定着してしまっているかの様だ。

 この初期設定段階で生じる作用と反作用の拮抗は凄まじく、特に、ミュージカルでは(歌と踊りの強度に押されて)軽んじられがちの「作劇」の側面に関し、「ご都合主義でも良いじゃん」という価値観と「いや、それじゃダメでしょ」という価値観が、互いを滅殺し、つまり、意義と意義が殺し合う時間が流れ続ける。ハッピーエンディングストーリーのラインは、どう引けば良いのだろうか?

 『ウエストサイド物語』の悲劇的結末は、「移民問題の未解決性」が「一つの物語の悲劇的結末」という、似て非なるものと交換されることで、辛うじてこの問題から逃れている。しかし、『イン・ザ・ハイツ』は堂々たるハッピーエンドである。イージーウエイはこうだ。「どんなに苦しくても、前向きに逞しく生きてゆこう」。この効果を、すんなりと受け入れられるか、受け入れられないかで、本作の評価は大きく左右される。筆者は素直には受け入れられない。以下、その点について書く。

 『glee/グリー』は、ヒスパニック限定の移民問題だけではなく、アジア系、アフリカ系、ロシア系、ユダヤ系と、全方面的に移民の問題を拡張し、LGBTQや身体障害、不妊やジェンダー差別、家族の崩壊までをも含む、あらゆる差別の伽藍を一挙導入し、精緻に配置すること、オリジナル曲よりも、70年代を中心に、50年代から10年代までの、あらゆる「ポップ・ミュージック(フランク・シナトラからレディー・ガガまで)」のカヴァーを召喚すること、といった拡大政策によって、問題の中心点を空洞化させ、各問題の社会的な未解決性を保留にしたまま、圧倒的とも言えるブロードウエイミュージカルスキリングがもたらす、ハッピーエンディングの力が、「どんなに苦しくても、前向きに逞しく生きてゆこう」効果の最大値を記録している(※注3)。

 では、本作はどうだろうか? 結論から言えば、作用と反作用の激しい拮抗はそのままに、結果イージーウエイである。そこには「移民としての、民族性に対する誇り、ハイツ(主に高台にある集合住宅。転じてここでは「移民居住区画」)住民としての強いファミリー意識」「そこから生まれた音楽を使う」といった、現代的なトッピングが盛られており、バランス感覚にも優れている。

 しかし、『イン・ザ・ハイツ』には、「すんなり受け入れりゃいいじゃん。それが結局ミュージカルのハッピーエンディングなんだからさ。こんな凄いミュージカルなんだから、楽しまなきゃ」と、イージーに言わせてくれない出自があり、それは観客の自由意志を若干超えているように思える。

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