男手ひとつの子育て奮闘記『ファザーフッド』 クラシカル志向で描く現代的なテーマ

 現代の映画では、クローズアップや、逆に引いた構図を多用して、その場の空気や緊張感を高める効果を使ったものが高く評価されやすい傾向がある。本作は、それらの作品に比べると、多くが中間的なショットで構成されているため、インパクトが薄いと感じられる部分がある。しかし一方で、俳優の演技を効果的に見せるには、ミディアムな距離から撮るのが効果的であるのも確かだ。

 この、一見地味に感じられるスタイルを本作が守っている理由が、劇中のなかで唐突に言及される『赤ちゃん教育』(1938年)『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)などの映画タイトルによって氷解する。これらの作品は、ハリウッドの大監督ハワード・ホークスによる、「スクリューボール・コメディー」の代表的傑作だ。この時代のハリウッド映画は、スター俳優の魅力をドーンと見せるため、バストショットなど中間的な距離で堂々と俳優を撮り上げる手法が一般的で、とくにハワード・ホークス監督はそういった演出を象徴する映画監督だといえる。

 『赤ちゃん教育』や『ヒズ・ガール・フライデー』は、カメラワークこそ派手ではないものの、俳優の見せ方や脚本やシーンの活かし方が非常に洗練され、おそろしく切れ味が鋭いことが分かる。このような優れた作品を目にすると、映画というものは、必ずしも一方的に進化してきたわけでなく、退化してしまった部分もあるのだと分かるのだ。日本でいえば、夭折した山中貞雄監督が同時期に『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)で、日本のコメディー映画に同様の洗練をもたらしている。だが、この鮮やかな技術は、スタイルとともに廃れているのが現状である。

 本作がそれほど話題を集めなかったというのは、日常の生活を通して家族愛を描くという、いかにも地味と思える題材とともに、クラシカルなスタイルを部分的に復権する意図が演出に込められているからだろう。そしてその作風は、作家個人にとって挑戦的だったとしても、なかなか伝わりづらいのも確かなのだ。

 とはいえ、本作はただクラシカル志向というだけではなく、あくまで描かれるのは現代的なテーマだ。マシューが子どもの面倒を見ていることで、周囲の人々は彼に奇異な目を向ける。そんな状況があぶり出しているのは、いまだに付きっきりで子育てをするのは母親ばかりという、現在の社会状況である。父親が子どもを育てるのは、確かに大変だろう。しかし、世の多くの母親たちはそれをこなしているのである。本作でマシューが苦心して娘を育て上げることが大変で特別であるのと同様、全ての子育てが大変で特別なのだ。

 マシューの娘・マディは、父親の姿を見て育ち、父親の男友達と交流することで、女児向けとして作られた服装を好まない子どもに育っていく。周囲の人間たちは、そんなマディの様子を見て、やはり男手で娘を育てるのは難しいとアドバイスし、学校はマディの服装を矯正しようとするようになる。ここで気付かされるのは、じつはその状態は、マシューやマディが悪いのではなく、むしろ“女らしさ”、“男らしさ”という観念に、多くの人が縛られ過ぎているのではないかという点だ。そして、そういった考え方を人々が捨てない限り、“母親が子どもの面倒を見る”という状況は、変わらず再生産されていくことになるだろう。

 日本でも、例えば男性が育休制度を利用することで、実際に様々な軋轢が生じる例が報告されているように、社会の大部分が、男性の育児に対応できていないのが現状だ。本作は、そのような社会で生きる男性が直面する孤独さをも映し出す。

 社会の変容や進歩とともに、映画の題材は様変わりしていく。本作は、“男が子どもを育てるのを応援しよう”というメッセージを発信している。それは、真の男女平等が達成されたときに、古くさいものとなってしまうだろう。しかし、現代社会がまだまだそのような状況から遠い以上、本作は今後もわれわれにとって話し合うべき論点を持った作品であり続けるはずだ。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■配信情報
『ファザーフッド』
Netflixにて配信中
監督・脚本:ポール・ワイツ
脚本:ダナ・スティーヴンス
出演:ケヴィン・ハート、アルフレ・ウッダード、リルレル・ハウリー、ディワンダ・ワイズ、アンソニー・キャリガン、メロディ・ハード、ポール・ライザー

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