宮台真司の『ジーマ・ブルー』評:『崩壊を加速させよ』で論じた奇蹟がそこにある

畏怖への要求としての正装

 映画ではジーマの作品発表会に参加する観客らが、全員タキシードやドレスの正装をする。映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』同様、作品を何一つ理解できないブルジョアジー界隈への揶揄とも見られる。だが「ジーマ・ブルー」が「イヴ・クライン・ブルー」を引いていることに気付ける観客は、別の解釈をするだろう。イヴ・クラインの逸話が示す「畏怖の仕掛け」だ。

 イヴ・クラインは、ヌードモデルにいつも同色のブルーの絵の具を塗って、魚拓をとるかのようにカンバスに押し付けるパフォーマンスをすることで知られる。彼は観客にフルの正装をして来るように要求した。各人なりの最大限の正装でなければパフォーマンスを見ることはできなかった。とすれば、ジーマによる正装の要求は「畏怖への要求」である。

 ジーマ・ブルーのラストパフォーマンスでは、観客らもジーマ自身も最大限の正装をする。これは教会で帽子を脱ぐのと同じだ。日本では勘違いされがちだが、これを礼儀だと理解するのは間違いである。礼儀は「人」に対するものだが、教会の脱帽は「神」に対するもので、その本質は「畏怖への要求」だ。ジーマではなく世界に対する畏怖が要求されている。

「世界の困難」「愛の困難」

 最後になるが、数多の観客、数多の芸術記者から、なぜクレアだけが選ばれたのか。それは、彼女だけが愛のもたらす「情念の連鎖」に連なり得ると、数多の芸術記事を読んで来たジーマ・ロボットが踏んだから以外ではあり得ない。そこには、芸術をめぐる絶望が語られている。ジーマの作品は、事実上、最終的にはクレアのために製作されたのだった。

 冒頭に戻るが、この映画の主題は一言で「なぜ芸術するのか」だ。この主題は自動的に自己言及になる。「なぜこの映画は作られるのか」。答えは、何が作品をあらしめたのかを熟考することで得られる。「世界を知ること」と「それを伝えること」との間に「愛による媒介」を挿入するためだ。今日、二つの困難がある。世界という困難。愛という困難。

 ちなみに原作はこの映画とは違い、「記憶の未規定性」を主題にする。何百年も生きる人は、記憶を失うが、それを記録装置で補完する。だが記録装置の正しさ(例えば選択の非恣意性)を記憶なき人間には確証できない。ジーマの二つの物語もそれに関わる。それなりに感動的な作品だが、芸術とは何かを主題にしたこの映画の方が素晴らしい。そこでは崩壊が加速している。

■宮台真司
社会学者。映画批評家。東京都立大学教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■配信情報
Netflixオリジナルシリーズ『ラブ、デス&ロボット』
シーズン1:独占配信中
シーズン2:5月14日(金)より独占配信開始
製作総指揮:デヴィッド・フィンチャー、ティム・ミラー、ジェニファー・ミラー、ジョシュア・ドーネン

■書籍情報

『崩壊を加速させよ  「社会」が沈んで「世界」が浮上する』
著者:宮台真司
発売中
ISBN 978-4-909852-09-0 C0074
仕様:四六判/424ページ
定価:2,970円(本体2,700円+税)
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/
特設サイト:https://blueprint.co.jp/lp/miyadai-shinji-movie-review-2011-2020/

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