宮台真司インタビュー:『崩壊を加速させよ』で映画批評の新たな試みに至るまで

「映画体験を論じることは、自らの世界体験の体験質を確定していくこと」

ーークリスチャンとして、というお話もありましたが、この本を読むと、近年の映画を読み解く上で、また宮台さんのお考えを探る上で、キリスト教や聖書への理解が必要だと感じます。

宮台:なるほど。日本の宗教性は「御利益信仰」で、神様たちは「役に立つお友達」に過ぎません。旧約聖書でエロヒムと呼ばれるものです。それでは存在論に繋がりません。だからそこから完全に離脱する必要があります。でもそうすると、オウム信者に代表されるように「ここはどこ?私は誰?」という未規定性を埋め合わせてくれる宗教を、想定しがちです。

 絶対の概念が考え抜かれていないからです。未来の不確実性を埋め合わせるのが「御利益祈願系」で、存在の未規定性を埋め合わせるのが「意味追求系」です。後者は大抵、未規定性は修行で埋められるとする「修養系」と、未規定性は神が与えた使命で埋め合わされるとする「黙示録系」に分岐します。でも絶対の概念を考え抜けば、埋め合わせはあり得ません。

 不確実性と未規定性こそが絶対です。だから、世界の中にいるエロヒムとは別に、世界の外にある言語化も図像化もできない何か(ヤハウエ)が持ち出されます。この思考を突き詰めると、自動的に汎神論(インテリジェント宇宙論)かグノーシズム(内部表現論)に近づきます。実際に分派が生じました。表象不可能なものを表象したがるがゆえの帰結です。

 キリスト教研究に勤しんだ晩期ユングはイエスの言説を内部表現論だと理解します。神もエロヒムも聖霊も悪魔も内部表現に過ぎないとの理解です。それに従えば所謂グノーシズムも内部表現に過ぎません。こうした逆説に敏感な汎内部表現論を僕は<原グノーシズム>と呼びます。そこまで絶対を追求すると、イエスとブッダは近い存在にならざるを得ません。

 ちなみに内部表現論は、人の世界体験の全てを社会システム(社会)と心的システム(人格)に媒介された内部表現だと理解する枠組です。これは世界体験の外に未規定な世界が在るとする存在論です。他方、汎神論は、世界の存在そのものを神と同置するスピノザ的なもので、科学に通暁した人が受容しやすい存在論です。いずれも修養系と黙示録系を徹底的に否定します。

 僕の立場は、こうした思考の歴史が織り成すアレゴリーーー瓦礫の中に一瞬浮かび上がる星座(ベンヤミン)ーーに身を委ねよというものです。世界は全体なのでシンボルで指示できないからです。するとやっと奇蹟への<開かれ>が得られます。15年程前にこうした思考が形を取り始めた頃に、旧約聖書に詳しい司祭と二人で旧約聖書の読書会を始めたという訳です。

 東京カトリック教区の80歳代の方ですが、読書会をする以上は本当に思うことを言わなければと思い、神父様が教会で仰言ることは信者向けのソレとして、僕は本当はこういうことだと理解すると長い読書会を通じて言い続けました。すると、ほぼ貴兄の言う通りだと仰言っていただいた上、読書会の終了時に洗礼と堅信を受けて信者になれと勧められました。

 虚を突かれた僕が「自分は長年ナンパ師のクズで、資格がありません」と言うと、「貴兄も御存知の通り、イエスは何かの道徳を推奨したことはなく、道徳主義的な歪曲は、道徳に従うのが容易な上流に媚びて布教する戦略に淵源する」と返された。かくてクリスチャンになりましたが、そんな経緯もあり、僕の理解はそんなに間違っていないと思います。

ーー聖書学の先端的な部分においては、宮台さんの考えとかなりクロスする面があると。

宮台:はい。僕の考えでは、新約と旧約の聖書を血肉化するとは、イエス言行録を核とする新約聖書を読む際、イエスが自らをパリサイ派ユダヤ教徒だと自己規定していた事実を、イエスが誰より通暁していた旧約聖書と、イエスが置かれた当時の歴史的文脈から読み解くことです。その意味で、キリスト教理解の99%は実証的歴史学の方法によって進められます。

 より正確には、僕が映画批評で用いている「歴史的文脈がどんな体験を可能にしたか、体験からどんな歴史的文脈が浮かび上がるか」を究明するという実存批評の方法で、信仰抜きに進められるんです。ただ最後の1%だけ、ある種のジャンプが必要です。そのジャンプを与えるものを「啓示」と呼びます。その啓示は、多くは奇蹟の体験によって与えられます。

ーーその1%というのは、映画にも関わることですか?

宮台:そうだと答えると本書が宗教書のニュアンスを帯びるので保留しましょうか(笑)。ただ、イエスは32歳頃の1年間しか活動していないのに全世界の歴史が全面的に変わった。これほど特異なパーソンはイエスを除けば歴史に存在しません。イエスがいなければ近代社会も近代人も僕の批評もあり得ません。それをどう理解するのかが最後1%に関わります。

 それを世界が存在することの目的的な福音と感じるかどうか。僕にとってはなぜ世界かあるのかという問いと同じです。無数のパラレルワールドがあるとする多宇宙論に立つにせよ、無数のパラレルワールドがあるような世界がなぜあるのかと問いに先送りされるだけ。先送りをやめた時、窮極の目的論が出現する。そこを描く映画はないので、本書は最後1%には触れません。

 でも『テネット』は微妙です。この作品は「世界がこのように作られるべき必然はなかった」というところに反実仮想を持ち込み、「世界が別の摂理で成り立っていたらどうか」を問います。聖書学で言う「創造の偶発性」で、窮極の目的論=創造者に関わる問いを開いています。むろんノーランは意識していますが、観客がそれに気付くかどうかは別問題です。

ーー十全に表現しきっていない、ということですか。

宮台:創造の偶発性について、そもそも十全に表現する必要があるのかどうか。そもそも十全な表現などあり得るのだろうか。それを考えてみて下さい。十全に表現すれば、必ず既に述べた逆説に填まります。その意味で、あそこまでの表現以上のことは、監督が賢明であれば、絶対にできないはずです。むろんクリストファー・ノーランは賢明な監督です(笑)。

ーーあらためて、宮台さんにとって本書はどう位置付けられる一冊でしょうか?

宮台:僕にとって映画体験を論じることは、自らの世界体験の体験質を確定していくことです。そのことで、本で学んでもピンとこなかったーー理解できても響かないーー理論や概念が、不意に響き始めることがあります。それまで「ハイデガーはこう考えている」という理屈しか分からなかったのが「彼がどんな体験質を言葉にしたか」が分かるようになります。

 すると体験質を伴って使える概念的図式が揃い、言葉にできなかった映画体験を言葉にできます。映画体験が体験質を伴う言葉を与え、体験質を伴う言葉が映画体験を支える、という循環。本書はそのスパイラルがよく回っています。「社会から世界へ、世界から社会へ」という従来の僕の映画批評のモチーフに、体験質の肉付けを与えてバージョンアップした形です。

■書籍情報

『崩壊を加速させよ  「社会」が沈んで「世界」が浮上する』
著者:宮台真司
発売中
ISBN 978-4-909852-09-0 C0074
仕様:四六判/424ページ
定価:2,970円(本体2,700円+税)
出版社:株式会社blueprint
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/

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