“式典”としての『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 前3作との大きな違いと“物語の終わり”
現在、日本の劇場が大変な“場所”になっている。『鬼滅の刃』の大ヒットの時も劇場は大変な場所になっていたが、それとはまったく異なる現象として、同じアニメ作品でもまったく異なる文脈で、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は現在劇場公開されている。一体何が起きているのか? そもそもエヴァンゲリオンとは? という人たちは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 』(2007年)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 』(2012年)の3本を鑑賞して劇場に行くだけでいい。それぞれ100分程度の作品なので、すぐ追いつける……が、暴論を言えば、この3本を鑑賞することは予習以外の意味をもたないだろう。それほどまでに、前作までの3本と今回の『シン・エヴァンゲリオン』の間には『Q』から9年経っていること以上の、あまりに大きな溝がある。
今回の『シン・エヴァンゲリオン』に課された使命は、巨大に膨れ上がったファンダムに対して「物語の終わり」を納得させること。ソーシャルメディアとファンカルチャーの交わりが歪な熱狂を生む時代において、シリーズ作品の運営は「政治」の領域に突入しており、その中でもとくに「物語の終わり」を描くことは重要な決定のひとつだ。『シン・エヴァンゲリオン』がどう終わるか、考えられるパターンは大きく分けて3つだった。
1つ目は、『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)のように“映画ではないナニカ”になることで劇場を空間化し、作品を「式典」として機能させること。
2つ目は、『スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019年)のように、資本家と、監督を含めた製作現場のスタッフたち、熱狂的なファンダム、それぞれの思惑が噛み合わず、シリーズ運営が存続を目的にした空虚なビジネスに成り下がってしまうこと(……それに引き換え『マンダロリアン』はあらゆる角度で正しい作品だった)。
3つ目は、『ゲーム・オブ・スローンズ』最終章(2019年)のように、優れた芸術作品であることを第一に考え、ファンのバックラッシュを前提とした作品を作ること。
まず、『エヴァンゲリオン』の原作権を保有し、作品の制作費を全額出資する株式会社カラーの代表取締役が監督の庵野秀明自身であることから、資本家と制作現場の軋轢は起こりえないため、2つ目の可能性はない。そして、3つ目はすでに『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年)でやっているので、やる必要はないだろう。結論、度重なる延期を経て、2021年3月8日に公開された『シン・エヴァンゲリオン』は、ポップカルチャーの中心で「物語の終わり」を描くことのひとつの正解を出した『アベンジャーズ/エンドゲーム』と並走する形で、劇場を「式典」の場所にしてしまったのだ。
『アベンジャーズ/エンドゲーム』は映画史の文脈では語れない作品だった。撮影や編集が生むアクションの皆楽も、画として優れている点も少なく、ストーリーもドラマが無機質に羅列されているだけの印象が強い『エンドゲーム』が、それでも(私を含め)多くの観客の心を揺さぶったのは、その非映画的なマナーの数々が、“キャラクターたちを見送る”式典としての機能を果たしたからだ。『エンドゲーム』を観ることは、観客それぞれの「マーベル作品と過ごしてきた日々」を見ることであり、私と隣の観客の間には“元々の”芸術が持つ特性以上に異なる『エンドゲーム』があり、それらは映画館という場所を通してクロスオーバーする。その光景は卒業式や葬式、結婚式、なんでもいいが、その類にもっとも近い現象であり、『シン・エヴァンゲリオン』で起きていることも全く同じ現象である。鑑賞した多くの人たちが「ネタバレ」を気にするあまり、ソーシャルメディア上で何も発信できなくなっている事態の本質は、この作品が式典である以上、この作品における「ネタバレ」がそもそも何か、わからないからだろう。
庵野監督の前作にあたる『シン・ゴジラ』(2016年)も非映画的なマナーに貫かれた作品だった。カメラや登場人物の動き(アクション)ではなく、レイアウトやアングル、カット割りのリズムが雄弁なスタイルは、庵野監督が100回以上観たとしてフェイバリットにあげている岡本喜八監督の『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)や『日本のいちばん長い日』(1967年)、もしくは市川崑作品など、映画史の文脈で語るよりも、庵野監督の「独自の文体」の発展形として語るのが適切だった。
『Q』から『シン・エヴァンゲリオン』へと至る9年間で、予定外に制作することになった『シン・ゴジラ』は、結果的に『エヴァンゲリオン』文体の進化、新たな可能性を促し、『エンドゲーム』との並走も可能にしたーーちょうど今から10年前の1996年3月27日に放送されたテレビ版の『エヴァンゲリオン』最終回も「式典」としての側面はあったが、『シン・エヴァンゲリオン』と比較すれば、エンターテインメントとしての強度は別格だ。この成熟は『シン・ゴジラ』を経由したこと、そして、ポップカルチャー全体におけるナラティブの進化、それを楽しむ観客のリテラシー向上によってもたらされたもので、つまり、『エヴァンゲリオン』は1996年ではなく、2021年に終わるべき作品だったのだ。では、ここからは作品の中身について書いていきたいと思う。具体的なストーリーには触れないので未鑑賞の人にも、ぜひ読んでもらいたいと思う。