『罪の声』で浮かび上がる人間ドラマ 社会派のテーマを“エンタメ”で届ける、野木亜紀子の覚悟

 「『罪の声』は、野木亜紀子脚本のヒューマンミステリー作品としては素晴らしい。でも、グリコ・森永事件をモデルにした作品としては、物足りなさもある」――そんな声を、新聞の社会部記者経験者から聞いた。その真意とはどういったものなのか。

 映画『罪の声』は、2016年『週刊文春』ミステリーランキングで年間ベスト1となった塩田武士の小説を原作にしたもの。グリコ・森永事件をモデルとした「ギン萬事件」の真相を追うミステリーで、その鍵となるのは、身代金受け渡しの際に使われた子どもの声のテープである。

 その声の主の一人が、ある日、自身の声が事件に使われていたことを偶然知る主人公の一人・テイラーを営む曽根(星野源)。そして、もう一人の主人公が、人の不幸話などをネタにする社会部での仕事に嫌気がさし、文化部で「スカスカの記事」を書き続けている新聞記者・阿久津(小栗旬)だ。

 原作・映画ともに共通しているのは、マスコミが扱いにくいタブー視された複雑でややこしい諸事情には触れずに物語を成立させていること。これがおそらく冒頭の記者が語った感想の理由の一つなのだろう。しかし、原作も映画もあくまでフィクションであり、そこに踏み込む必要性は感じない。

 それよりも原作と映画との違いで、「野木亜紀子脚本」を強く感じるのは、全体の「風味」というか「感触」が大きく異なっている点だ。

 以下、ネタバレ要素が多いため、映画を未見の方は、ご注意いただきたい。

 現実の未解決事件をもとにした小説を、さらに1本の映画という短い尺に収める上で野木脚本の巧みさが見られるのは、実際の事件で事実をおさえたうえで、「主人公2人の心理や背景」と「現在と回想」、「第三者の目線」など様々な層が重なり合い、大きなうねりとなって一つの物語を紡いでいること。

 そこで浮かび上がる物語は、あくまで「社会的事件」よりも「人間ドラマ」であり、「優しくあたたかな家族の物語」だ。原作者が新聞記者出身であることから、ジャーナリスト的なドライな描写が多いのに対し、映画はもっとウェットなヒューマニズムを感じさせる。特に人物像に関しては、“あて書き”のような部分もあったことを野木氏が公式パンフレット内でのインタビューで語っているように、原作と印象が大きく異なっている。

 特に、小栗演じる記者が、原作では「希望部署などもない、ある意味ポリシーの無い人」であるのに対し、映画では「社会部での仕事に疲れてしまったデリケートな正義感を持つ記者」として描かれる。だからこそ、阿久津の言葉の数々――事件について「エンタメで消費して良いのか」という問いや、人の不幸を聞いて「もう一ネタあれば埋まる。そんなことに嫌気がさした」「今の自分には、記者の矜持もなければ世の中に伝えたいこともない」という言葉は、「ジャーナリスト」という立場を超えて、“普通の人”の葛藤として響いてくる。

 そして、そこには社会派のテーマを多く扱いつつも、「エンタメ」というかたちで視聴者・観客に届け続ける野木氏自身の覚悟のようはものも感じられる。

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