宮台真司の『TENET テネット』評(後編):ノーランは不可解で根拠のない倫理に納得して描いている
ノーランが描いた、<閉ざされる>場合の2つのパターン
ダース:そうすると、ジェネシス(創世記)的なものだという捉え方もできますか?
宮台:そうかもしれない。ニールは、存在をイメージできる存在。プロタゴニストは、存在をイメージできない存在。ニールは、自分をループさせることで、歴史をループさせる存在。プロタゴニストは、ニールによってループする時空を与えられ、ニールの求めに応えてループ終了後の歴史を切り開く存在。想像可能なニールの「委ね」と、想像不可能なプロタゴニストの「引き受け」の、組み合せ。それが「呼び掛け」と「呼応」とする関係になることで、ループを完成させ、ループ後の時空を創造する。少し複雑なジェネシスです。
二人は対照的だけど、共に「記録された通りに歴史をなぞる覚悟」を貫徹する「ありえない存在」です。ここに『メメント』との対照が見出されます。『メメント』の主人公も、『TENET』の二人も、「記録」に<閉ざされて>いる点では「まったく同じ」です。でも『メメント』の主人公は、起点での「記録」の捏造を除けば、自動的に「記録」に<閉ざされ>てしまう受動的存在です。それに対して『TENET』の二人は、覚悟によって不断に「記録」された歴史をなぞり続ける──<閉ざされ>を意志し続ける──能動的存在です。
この共通性と対照性を思うにつけて、ノーラン監督は、「記録」に<閉ざされる>場合の2つのパターンを、2005年の『メメント』製作時に同時に思いついたんじゃないかと思います。利己的に<閉ざされる>能動的受動パターンを『メメント』で描き、利他的に<閉ざし続ける>受動的能動(=中動)パターンを15年後に『TENET』で描いた。実際、ある時点からの『TENET』の未来は、結果的にプロタゴニストが作ることになっています。「アルゴリズム」(全時空逆行装置)を未来人に渡さず、世界全体を逆行させる未来人の企てを阻止して、その後の人類が逆行なしにまっすぐそのまま進むことになったんですからね。
ダース:プロタゴニストがいなければ、逆行世界になって今の世界はなかった。また、彼は未来の自分がした計画に受動的に反応しているだけで、都度都度の選択で物語が展開していくという、普通の映画の主人公ではまったくない。
宮台:それが受動的能動=中動です。『メメント』との比較では、『メメント』の主人公の起点に能動がある受動的<閉ざされ>に対し、『TENET』の主人公は起点に受動がある能動的<閉ざし>の構えを継続します。具体的には、ニールを通じて提示された「記録」をひたすら機械のようになぞるーー恣意的選択をしないという選択(覚悟)を続けるーー。なぜ『TENET』の主人公は、「能動態」ならぬ「受動的能動=中動態」なのか。
このありそうもなさを理解するには、ナチスをルーツにした「ディープ・エコロジー」の残響を聴く必要があります。ディープ・エコロジストは、ガイア(地球生命圏)を守るには、人間中心主義を脱し、人類が今すぐ核戦争を起こして真っ先に絶滅するべきだと考えます。こうしたナチス的な思考の、どこが適切で、どこが不適切なのかについて、「料理の人類学」というプロジェクト(参照:https://twitter.com/miyadai/status/1275004933385801734)で隅々まで話しましたが、とても込み入った議論です。
だからここでは再説しませんが、環境問題で生き残れなくなった未来人による“全時空逆行によって、環境問題の「犯人」である過去の人類を窒息で絶滅させた後、全時空逆行で順行と等価になった世界を新たな構えで生き直す”という企てが失敗したことが、善いのか悪いのかが未規定だという点に、細心の注意をする必要があります。だからこそ主人公には“善だから選択する”という能動的構えがないんです。主人公はむしろ「暗黒のメシア」かもしれないという話です。
ダース:そう。未来人が悪なのかどうかという記録はないんですよね。未来人が困っているというのも想像上の話で、つまり、こういう計画で時間を逆行しているということは、彼らが暮らす未来の地球環境などが相当ひどいことになっていて、賭けに出たのだと。
しかし、その計画がどのように意思決定されて、どれくらいの人口規模で行われていることなのか、などの情報は、あえてブラックボックスに入れてある。要するに、プロタゴニストが行ったことが、長い目で見て善なのか、人類のために、地球のためになったのかということに関しては答えていない。
宮台:それを簡略に言えば、“「今の人類」を救うことが「未来の人類」を死滅させる”、つまり“「今の人類」を死滅させることが「未来の人類」を救う”という設定です。未来人は、ディープ・エコロジストと同じで、“地球環境を長期に持続可能にして人類や動植物の子々孫々を繁栄させるには、「今の人類」が死滅するのがいい”という発想をします。それをどう評価すればいいのかということです。
僕らには飽くまで「たまたま」ナチスの記憶があり、「ナチスは人道的に酷いことをした」とうなづき合えるので、互いに人間中心主義的にうなづき合って、ディープ・エコロジーを倫理的な迷いもなく否定できます。しかし、それは、未来の人類と動植物が被る惨状を「悲劇として共有」できないーー敢えてしないーーがゆえの浅はかさかもしれません。こうした設定の未規定性について、ノーラン監督は、敢えて善か悪か決めずに、オープンエンドにしています。