『わたしは光をにぎっている』松本穂香が“絵になる”理由 『四月物語』松たか子を想起させる瞬間も

 松本穂香は地方が似合う。

 ブレイクした朝の連続ドラマ小説『ひよっこ』(NHK総合)では福島出身の女の子を、ドラマ『この世界の片隅に』(TBS系)では広島に生きる女性を、『アストラル・アブノーマル鈴木さん』では群馬のYouTuber、『おいしい家族』では離島に帰省する女性を演じた。彼女はあらゆる地方の風景に溶け込む。むしろ、彼女がいれば、そこがたとえ東京だとしても地方に見えてくるような気さえする。

 中川龍太郎監督作品『わたしは光をにぎっている』は長野県と東京を舞台にしている。本作は地方と東京を、田舎と都市の対立関係で捉えず、地方も東京も失われてゆく場所という点で等価であると描く。再開発で、かつての景観を失おうとしている葛飾区立石は、東京でありながらどこか時が止まった、周縁的な場所として登場する。地方もまた東京に対して周縁的な存在であるとすれば、松本穂香のまとう地方の雰囲気が立石を周縁的な場所に見せるのかもしれない。

 銭湯、呑んべえ横丁、さびれたラーメン屋等々、本作が映し出す景色は昭和的な事物に彩られ、ある種のユートピアとして描かれる。そのような風景に違和感なく溶け込み、しかし存在感を失わずに松本穂香は居続ける。彼女が本作にもたらしたものは何か、映画の魅力とともに紹介したい。

「翔べない時代の『魔女の宅急便』」

 中川監督は、本作を「現代の『魔女の宅急便』」であると言う。インタビュー(http://kusagiri.jp/nakagawaryutaro/)によれば、幼稚園の時に『魔女の宅急便』を観たとのことで、彼にとって映画の原体験と言える作品なのかもしれない。

 本作の主人公、宮川澪は、早くに両親を亡くし、祖母の経営する民宿で育ったが、祖母の高齢化で民宿を閉めることになり、東京の葛飾区立石で銭湯を営む父の古い知り合いを頼ることになる。人生の目標があるわけでもない、特別な才能を持っているわけでもない澪は、居場所を失い、押し出されるように東京にやってくる。空を飛ぶというたった一つの才能を持って都会にやってきた魔女のキキと違い、一つの才能も持たない澪。中川監督は現代を「一つの才能ですら見つけることは難しい時代」と位置づけ、本作を「翔べない時代の『魔女の宅急便』」と呼ぶ。

 葛飾区立石という現実の再開発に揺れる街を舞台にした本作が、アニメ作品から着想を得ていると聞くと意外な印象を受けるかもしれない。しかし、中川監督は前作『四月の永い夢』も、『おもひでぽろぽろ』の実写版を作るというコンセプトから企画したと語る(http://kusagiri.jp/nakagawaryutaro/)。彼は自らを「アニメネイティブの世代」と言い、「アニメーションから実写を再解釈する」ことを実践していると語る。『四月の永い夢』について彼はこう語る。

「実写を再解釈するといったかたちでアニメーションが新しい表現を獲得して、僕らの世代はそれを観て育っているので、今度はアニメーションを再解釈して、実写映画を作ることが出来ないだろうかという、そういう意思が自分の中にあって。だから実写といっても、目の前にあるものを生々しく撮るのではなく、むしろ引き算しながら、作られた町として異世界を生み出せないものかということに、今回の作品で挑戦したかったんですよね」(SWAMP【平成生まれの映画論】『ウルトラマン』と高畑勲と山田洋次―― 『四月の永い夢』中川龍太郎監督インタビュー

 ここで中川監督が語る「異世界として」実在の町を映す試みは本作にも受け継がれている。今回の舞台、立石はどこか「イメージで再構成された昭和」のような雰囲気が感じられるのだ。

 この映画は風景が主人公だと中川監督は語るが、その風景は、現実よりも情報量を落として撮ることを意識している。中川監督は、アニメは実写(現実)に比べて情報量が少なく、見せるものをよりコントロールできるものであると述べている(参照:http://kusagiri.jp/nakagawaryutaro/)。その定義を前提に本作を観ると、様々に興味深い点が見えてくる。脚本上でも、映像の上でも本作は観客に与える情報を極めて限定している。

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