『ジョーカー』は“ヒーロー映画ブーム”を終焉に導くトリガーに? 批判も賞賛もできる“二面性”

 当初、本作のプロデューサーになるはずだったマーティン・スコセッシは、スケジュールの都合で製作から離脱したことが伝えられている。面白いのは、シネフィルとして知られるスコセッシが、近年のヒーロー映画全般を「テーマパーク・フィルム」と表現し、それは映画とは別のものだと語った、最近の出来事だ。この発言というのは、おそらくMCUやDCEUのように、それぞれの作品をシリーズの一部として扱う、アメコミヒーロー映画の新しい流れへの違和感からきているように思われる。作品一つひとつが、テーマパークのアトラクションのように、全体の一部として奉仕するコンテンツになってしまっていることであろう。

 一部のヒーロー映画の監督たちは、スコセッシへの尊敬を示しながらも、その発言に反発を表明している。『アベンジャーズ』シリーズのように、複数の作品が繋がりを見せることによって生まれる魅力もあるのだ。マーベル・スタジオの制作を統括するケヴィン・ファイギの示すロードマップによって、作品はいままでにないダイナミックな物語を語ることができる。

 しかし、たしかにそういう環境において、個別の作品に多かれ少なかれ制約が生まれるのは確かなのだ。『タクシードライバー』のように、監督が自主的に現実の世界と同じ揺らぎのある表現や、突出した作家性が、そのような土壌から芽吹くことは難しい。つまりスコセッシは、真の映画とは、作り手が規律から抜け出して自由を手にすることによってしか生まれないと言いたいのではないだろうか。トッド・フィリップス監督は、『ジョーカー』をあくまで単独の映画だと発言し、DC映画のユニバースに加わることを、少なくとも現時点で否定している。それはスコセッシ同様、作品の独立性こそが作家性を守るという信念を持っているからであろう。

 独立意識はそれだけにとどまらない。本作を観ていると、『タクシードライバー』などへの熱い愛情に対し、コミックの設定とのつながりを示すようなシーンは冷めていて、事務的だとすら感じられるのだ。つまりトッド・フィリップスは、ヒーロー映画自体にはそれほど興味がなく、もっといえばジョーカーというキャラクターにすら、しっかりと注意を払っているわけではない。あくまで犯罪に手を染めていく人間の心理を、揺らぎを持って描くこと、そして狂いゆく人物の見る世界と、人を狂わせる社会を映し出す表現こそを魅力としているのだ。しかし、その愛情や尊敬の希薄さこそが、今回ジョーカーという存在の隠された可能性に光をあてることに成功したともいえよう。

 快進撃を続けているマーベル・スタジオのヒーロー映画に存在しなかったのは、この燃え上がるような監督の作家性であり、一つの映画作品としてのただならぬ“本格感”ではなかったか。この圧倒的な『ジョーカー』以降、いままでのようなヒーロー映画が公開されたとして、どうしても小粒に感じられてしまうのは免れないのかもしれない。

 このように、『ジョーカー』一作の衝撃で、世界の見方は激変してしまった。もしかしたら、本作がヒーロー映画ブームを終焉に導くトリガーになったのかもしれないのである。この緊急事態を受け、マーベル・スタジオはもちろん、それを生み出したDC映画が、今後どのように作品を展開するのか、そして本作のようなアートフィルムとしての魅力を持った犯罪映画にふたたび脚光が集まるようになるのか……。『ジョーカー』は、まさにあらゆる意味で混沌を呼び込んだ一作として映画史に刻まれる作品になるだろう。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『ジョーカー』
全国公開中
監督・製作・共同脚本:トッド・フィリップス
共同脚本:スコット・シルバー
出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved” “TM & (c)DC Comics”
公式サイト:http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/

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