『名探偵コナンと平成』の著者・さやわかが語る

『名探偵コナン』は平成の時代をどう描いた? 「真実はいつもひとつ」に込められた二重性

ハリウッド化する劇場版の規模感

――映画としても劇場版『名探偵コナン』は平成を代表するシリーズになっていますよね。

さやわか:『コナン』の映画は色んな要素が詰め込まれていますよね。人も死ぬし、爆破もするし、クイズも出る。昔ながらの映画に見慣れた人間からすると、「この要素いらないだろ」と思ってしまうんですが、そうではないんです。ごちゃごちゃに重なり合っていることの正当性を『コナン』映画は提示しています。本書でも『ベイカー街の亡霊』のストーリー解説をあえて真面目にやっているんですが、なぜかというとあの話はストーリーラインがわかりやすいからなんですよね。昔の映画に近い。初期の作品はミステリーを中心としてレイヤーの少ない構造になっているので、どちらかというと見やすい。でも世の中が一元的なものではなくなったというのを如実に象徴しているのが現在の『コナン』映画だと思います。

 例えば海外の映画、マーベル作品や『アナと雪の女王』『ズートピア』はジェンダーギャップやジェンダーバランスを考え抜いて作っています。明言しなくても、その要素が物語の趨勢に関わっていたりする。現実社会の問題が綺麗に脚本レベルで反映されたものとして着地しているんですが、『コナン』は日本映画としてそれらと全く同じことをやるわけでもなく、ごちゃごちゃに入り組んだ形を提示することで対抗しているんだなと僕は思ったんですよね。

――最近の作品は特にハリウッドライクですね。

さやわか:意識はしていると思います。『コナン』の場合は、アニメだからこそ、ハリウッドなら実写でやるだろう列車大爆発やダムの大爆破というものを描けてしまうんですよね。つまり、『踊る大捜査線』や実写版『進撃の巨人』『鋼の錬金術師』ではできないことが、『コナン』はできる。だから日本映画の中でも『コナン』こそが一番アクション映画的に、またハリウッドライクになっていくというのは、僕は必然だと思います。

――公開中の『紺青の拳』はシンガポールが舞台だったりと、海外市場も意識しているのでしょうか?

さやわか:例えばハリウッド映画の場合、作中に出てくる味方はハリウッド資本が好ましい国の人間でした。昔なら日本人、今なら中国人ですよね。『オデッセイ』で急に中国人が助けてくれたりと、そういう目配せをハリウッドはちゃんとやっていていますし、近年は人種問題にもきちんと配慮してキャスティングに盛り込んでいます。日本はあまりそういったことを考えておらず、「今回は京都に行ってみようか」とかそんな感覚で作っていたんですけど、近年の『コナン』映画の場合は、ハリウッド式にロケーション設定をしている印象があります。つまり、海外市場も視野に入れているのではないでしょうか。もちろん、観光としてその場所にいった感覚を重要視しているという明確な意思も感じます。そのやり方の方法論を、20作品通して見出してきたのだと思いますね。もちろんミステリーとして完全無欠なものを作り、場所も動かない映画も面白いかもしれません。でも大衆娯楽としての意味を考えると、行ったこともない外国で派手に暴れまわるというのは、大事だと思います。

 近年、『コナン』映画は「アクション性が高まった」と言われることが多いですが、観光映画化しているという側面もあると思います。もともとコナン映画は早い段階で20億規模の興行収入があって、ドル箱シリーズでした。そのさらに上を目指していった結果、作品としての規模感をどう作っていくかという部分に焦点が変わっていっています。

――アクションシーンは『ワイルド・スピード』のように年々派手になっていきますね。

さやわか:ハリウッド映画でも色々ぶっ飛んでいるシーンってとにかく目が気持ちよくて、本当は映画ってただそれだけでも良いはずなんですよね。物語をあれこれ分析することもできるんですが、「本当は娯楽ってそういうものじゃないじゃん」と、『コナン』はやっちゃうんです。例えば『純黒の悪夢』は、とにかく前半30分で観客を掴みにいくという、ハリウッド脚本術の文脈に即しています。一方で、オープニングの基本的な設定説明もいまだに続けていますよね。いかにもハリウッド式の娯楽と、昔ながらの『コナン』をいびつに取り混ぜる感じ。そういうものとして進化することを選んでいるんですね。

――また劇場版では、原作を追い越してその本筋を先取りしたりもしています。

さやわか:最近は、観客も原作を追い越した描写を期待して観に行くようになっていますし、青山剛昌先生自身が、脚本や設定、コンテ、原画にものすごく配慮しているので、だからこそ追い越すことが可能になっています。本にも書きましたが、メディアミックスとはいえ、他の作品であれば原作の優位性があって、そこからの派生作品としてアニメが位置付けられます。だから「原作改変」「改悪」という言い方になるんです。ところがコナンは同じ世界観を共有しつつ、同じところもあるし違うところもある。場合によっては蘭が空手で関東大会で優勝する話は、映画で先に提供され、原作がそれを逆輸入するということを青山さんは自然にやっているんです。どっちが元だということをあまり意識していないというか、取り込んだ方が面白いじゃんという、快楽主義なんですね。

――ユニバース的発想をひとつの作品群の中でやってしまっているという。

さやわか:そうだと思います。『スパイダーマン:スパイダーバース』は、「それぞれのスパイダーマンが居て別にいいじゃん」という考え方でしたよね。観客や読者もそれを楽しむ余裕がある。いわゆるメタ構造なんですけど、日本人は「オリジナルは誰なのか」と深刻なものとして捉えがちですよね。で、コナンは「どっちがオリジナルじゃなく、どっちもオリジナル」としている。やはり映画に青山さんが関わっているというのがすごく大きいはずなんです。

――原作者が映画に大きく関わるのはひとつのヒットの特徴でもありますよね。

さやわか:そうです。他にも世良真純が出てくるシーンで、世良の部屋にベットがひとつ追加されているんです。「“領域外の妹”がいるからベットをもうひとつ置いておいてくれ」と、青山先生が指示したらしいんですが、それも原作の物語の伏線になっている。原作者が入っているからこそやれるんですよね。宮野明美の設定のように、TV版と矛盾してきたりする部分もあるんですが、それ含めて「ここは別の時空の出来事」「ここは共通」というさじ加減でできるのは、アメコミ的かもしれません。

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