宮台真司の『A GHOST STORY』評(中編):<森>の思考が思い描く<世界>を『トロピカル・マラディ』に見る
「微熱の街」の万華鏡で視座が邂逅して合体する
『トロピカル~』は、森を背景とした草原でのケンを含む森林警備隊員らの実働ぶりから始まります。草原と森の対比が全体モチーフを暗示することは話しましたが、その直後、トンの実家での夕餉が珠玉の場面です。この段階ではまだケンとトンとの関係は描かれていませんが、映画の前半に満ちている「視線の邂逅」というモチーフが魅惑的に描かれています。
屋外の夕餉に集まっているのは七人ほど。家族親族以外も混ざっているらしい。まず若い男女の視線が邂逅します。トンの母親が視線と視線の交わりを確認して何か思ったようです。次にケンの視線がトンに注がれています。やはれ母親がそれをチェックして何か思ったようです。視線の邂逅で一瞬の閉鎖的時空が成立します。母親以外は誰も知りません。
視線の邂逅というモチーフを引き継ぐのが、続く場面。バスに座席にいるトンの向かいに女がいます。視線が邂逅します。女が恥じらいつつ微笑み、トンが笑みを返します。誘い誘われ。どちらが誘いどちらが誘われているのか分かりません。窓外から数多の街頭音が聞こえます。大音量の演説。歌謡曲。コールされて携帯で話す女の仕草は細部までエロチックです。
森の蜜蜂と花の関係を思わせます。花が蜜蜂を誘います。蜜蜂が花を訪れます。蜜蜂は訪れるものの誘われています。花は訪れを待ちますが誘っています。女が男を見ます。男が視線に気づきます。女が誘います。男が女を訪れます。男は訪れるが誘われています。女は訪れを待ちますが誘っています。そこでは能動と受動が両義的です。すなわち中動態的です。
監督は知っているのです。2004年のイサーンが1989年のバンコクであることを。ほどなく「微熱の街」が冷え切ることを。先に話したように実際ジェントリフィケーションが進みました。ロウ・イエ監督『スプリング・フィーバー』(2009)と同じで、そこには「視線の邂逅を喪失した未来」からの眼差しがあります。「微熱の街」イサーンも南京も必ず失われるのです。
僕の3番目の子(長男)は3歳の頃からこんな営みを繰り返していました。女性を見つめます。女性が視線を合わせます。彼がニッコリします。女性が笑みを返します。女性が話しかけます。彼が応じます。以前ラジオで紹介しました。90年代半ばまでの渋谷での僕や同世代の男たちの営みです。僕のナンパやフィールドワークも中動性の時空が可能にしたものです。
「微熱の街バンコク」が失われた90年代半ば、「微熱の街渋谷」も失われました。視線の邂逅=中動態的合体が失われたのです。70年代末の男子大学生のナンパ経験率は今の3倍でしたが、たぶん「人の変化」というより「街の変化」です。僕(や同世代)は変わっていないのに、かつての振る舞いができないからです。誘い誘われのコール&レスポンスがあり得いからです。
「微熱の街」とは「視線の邂逅=中動的合体」が生じる時空のこと。だから何でもあり得ました。昭和のナンパを特集した『フラッシュ』2014年1月号*で、親しかったナンパ師たちと思い出を語りましたが、ナンパして30分後に屋上や非常階段や空きフロアーで物理的な合体もあり得ました。福永ケージ。鈴木陽司。僕と同年齢の伝説のハメ撮りカメラマンでした。
*この特集記事を宮台真司が監修した。
この特集、僕の同年齢の読者からの抗議が来ました。渋谷がそんな街だったはずがないと。つまり同じ物理的時空なのに経験的時空が乖離していた訳です。映画の冒頭近くに描かれた「視線の邂逅=中動的合体」による閉鎖時空が恐らくポイントなのです。そこに閉鎖時空が生じても誰も気づかないのです。視線が邂逅する者たちの渋谷/そうでない者たちの渋谷。
個体は能動と受動のユニットです。でも視線の邂逅で他の個体と中動的に合体して個体が消えます。<社会>から<世界>へと逃げる場合、「北」に逃げる者は、峻厳なる自然に浸透されることで個体が消えて解放されます。「南」に逃げる者は、視線の邂逅による中動的合体で個体が消えて解放されます。視線の邂逅で輪郭が膨縮する「微熱の街」は<森>という<世界>です。
閉鎖時空としての2人ユニットが成立すると、見えるのは個体たちですが、実在するのは2人ユニットです。その2人ユニットも、夜の公園やラブホで、別の個体や、別のカップル=2人ユニットと視線が邂逅すると、見えるのは複数の個体でも、実在するのは3人ユニットや4人ユニットになります。それが先に続く『フラッシュ』2014年4月号「覗き」特集でした*。
*この特集記事も宮台真司が監修した。
僕が、「言葉の自動機械」でも「法の奴隷」でもない人間や、人工知能(AI)から遠く離れた人間をイメージする場合、性愛に限らず、1人ユニットになったり2人ユニットになったり3人ユニットになったり…と膨縮する可能性を真っ先に想起します。能動受動ユニットが、視線の邂逅を通じて中動的合体を遂げ、より大きな能動受動ユニットを構成するという営みです。
ここ十数年、人類学の存在論的展開を経た御蔭で、遊動民や先住民やその作法を継承する狩猟者の語り(の紹介)に触れる機会が増えました。レーン・ウィラースレフやヴィヴェイロス・デ・カストロや服部文祥や奥野克巳などです。人と熊や鹿や狐の間で視線が邂逅します。すると「犬が人を見れば人になり、人が犬を見れば犬になる」(ヴィヴェイロス・デ・カストロ)のです。
というと遠い昔の話と思われがちです。でも、視線が邂逅する街、見る・見られるが輻輳する街、<森>のような「微熱の街」は、『トロピカル~』のイサーンや90年代半ばまでのバンコクや渋谷のように最近まで実在しました。<森>だった街を実際に経験した僕ら世代も今実在します。「微熱の街」が冷えて「言葉の自動機械」や「法の奴隷」が増殖したのが平成なのです。
イサーン外れの田舎で家族といるトン。バスに乗るトン。製氷工場で働くトン。サッカーで仲間と戯れるトン。夜の屋台街でケンといるトン。一人で食事するトン。ゲームセンターで見ず知らずにアドバイスするトン。モダンな動物病院のトン。一人のトンに見えて、各場所でそれぞれ別の者たちと共在することで、異なる視座をとる複数のトンになります。
そこでは街もトンも万華鏡です。そんなトンに近づこうとするケン。二人を万華鏡みたいな「微熱の街」が包みます。というと感動的なのは、先のゲーセンでトンを見つけたケンが二人でゲーセンから出て屋台街に繰り出す場面。バイクと人声と歌謡曲が入り交じった街頭音。万華鏡のように屋台の照明たち。二人が理由なく親密になるのは当然です。
ゲーセンを出た二人は人混みを縫って歩きながら睦言を交わします。不意に涙が出ました。僕たちは少し前までは「微熱の街」に包まれていました。行きずりで出会っても歩きながら睦言を交わせました。かつて街はどこもそういう時空でした。でも既に話したようにどこも例外なく冷えました。政策の間違いなどよりも本質的で普遍的な理由があるはずなのです。
【次回は『トロピカル・マラディ』後半と『ア・ゴースト・ストーリー』を繋げて論じます】
■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter
■公開情報
『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』
公開中
監督:デヴィッド・ロウリー
出演:ケイシー・アフレック、ルーニー・マーラ
配給:パルコ
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公式サイト:http://www.ags-movie.jp/