視覚障害をメタファーにしたビターなラブストーリー 『かごの中の瞳』は“女性の欲望の解放”を描く

 セクハラ告発に端を発した#Metooムーブメント以降、ではロマンスやエロスの問題をどう扱うかという議論があとを絶たない。つまり、ハラスメントに抵触する可能性を恐れて、ひとは恋愛や性を楽しむことが難しくなるのではないか、と。しかしそれはおそらく反動的かつやや短絡的な意見であって、#Metooが提唱したのは、いま、女性が主体となる欲望のあり方を模索することが求められているということだ。男性から女性への一方的な目線や行為でなく。「わたしの身体はわたしのもの」というのは性における重要なテーゼだが、だとすれば、欲望もまた「わたしのもの」であるはずだ。そこではむしろ、エロスは肯定されるべきである。


 『かごの中の瞳』は2016年、つまり#Metooムーブメント以前に女性が主体となる欲望をテーマとして発表された作品だ。マーク・フォースター監督作としては『ワールド・ウォーZ』(2013)、『プーと大人になった僕』(2018)の間に位置する作品であり、彼が脚本・制作を務めていることから考えると、小規模ながらもその意欲の高さを窺える。フォースター自身は本作について「以前から独占欲の絡むラブストーリーを作りたいと思っていた」と語っているが、奇しくもそれは同時代性を孕むこととなったのである。

 ジーナ(ブレイク・ライヴリー)は幼い頃に遭った交通事故で視力を失っていたが、夫・ジェームズ(ジェイソン・クラーク)に献身的に支えられ、タイのバンコクで幸せな結婚生活を送っていた。あるときジーナは角膜手術を受け右目の視力を取り戻し、夫婦は歓喜するが、現実が「見える」ようになったことでふたりは微妙にすれ違っていく……というところから動き出していく心理ドラマであり、ある種のラブストーリーだ。


 CGを駆使しているであろう幻想的なイメージが何度も挿入されることからもわかるように、このストーリーにおけるジーナの盲目と視力回復はひとつのメタファーである。彼女は世界が実際に「見える」ようになったことで、自身の欲望に目覚めていく。優しい夫の姿は彼女の想像と違い、実際には凡庸で退屈な男でしかない。そしてまた、夫の献身的な愛は形を変えた抑圧と支配であったことを悟り、次第に逃れようとする。つまり、ここで描かれているのは男が主張する愛という名の支配に気づき、自由を求める女の姿である。視覚障害をメタファーとして良いのかという倫理的な問題はある(実際の視覚障害者にとって、それは「メタファー」などではないからだ)が、いっぽうで、切実な問題であることも間違いない。本作の語りはとても滑らかで、示唆に富んでいる。

 視力を取り返す前と後のセックス・シーンの違いが象徴的だ。目が不自由な状態では夫の主導によって愛に満ちたセックスが交わされるが、視力を取り戻したあとの海外旅行の途中ではジーナがジェームズの身体の自由を奪った状態で試そうとして、夫の激しい拒絶により上手くいかない。旅先のスペインで夫婦のすれ違いは決定的になり、セックス・ショウを見て楽しむジーナに対してジェームズははっきりと不快感を示す。彼の姿は、女性の自由な性欲を受容できない男を代表したものであるだろう。

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