アニメーションはふたたび時代を体現するジャンルへ 今夏アニメの“子ども”と“動物”の意味を考察

「アクタント」の氾濫

 今回、編集部からこの夏公開された3本の劇場アニメーション映画――スタジオ地図/細田守監督の『未来のミライ』、スタジオコロリド/石田祐康監督の『ペンギン・ハイウェイ』、そして、スタジオポノック/米林宏昌・百瀬義行・山下明彦監督のオムニバス『ちいさな英雄―カニとタマゴと透明人間―』(『カニーニとカニーノ』『サムライエッグ』『透明人間』)について、この3作に共通して登場する「子ども」と「動物」の位置づけをめぐるレビューを依頼された。

 それぞれの作品におけるこれらふたつのモティーフが具体的にどのように表現され、意味づけられているかを綿密にたどるにはそれなりの分量が必要だが、ここでは、おもに『君の名は。』以降に活況を呈す現代アニメーションの新たなパラダイムから、これらふたつのモティーフの登場にぼくたちが見いだせる意味について、おおまかに論点をひとつ、出してみることで満足したい。

 それでは、あらためて各作品の該当要素を確認しておこう。

『未来のミライ』(c)2018 スタジオ地図

 すでにレビューも出揃っているころだが、細田の『未来のミライ』は、4歳の男の子くんちゃん(上白石萌歌)を主人公にしており、そこに産まれたばかりの妹・ミライちゃん(本渡楓)やくんちゃんが出会う少女(雑賀サクラ)などが加わる。『ペンギン・ハイウェイ』の主人公も小学4年生の男児・アオヤマ君(北香那)で、ウチダ君(釘宮理恵)やハマモトさん(潘めぐみ)など、彼の友人の小学生も多数登場する。そして、『ちいさな英雄』の中の『カニーニとカニーノ』、『サムライエッグ』では、それぞれサワガニの幼い兄弟・カニーニ(木村文乃)とカニーノ(鈴木梨央)、卵アレルギーの少年・シュン(篠原湊大)が物語の軸を担う。あるいは、動物という点では、『未来のミライ』では「ゆっこ」という太田家のペットのミニチュアダックスフントが登場し、『ペンギン・ハイウェイ』ではその題名通り、大量のペンギンが登場する。そして、『ちいさな英雄』では魚や水鳥(『カニーニとカニーノ』)、鶏(『サムライエッグ』)、犬(『透明人間』)などの動物が出てくる。

 もちろん、これらの子どもや動物には、個々の物語や主題に沿った多様な意味や機能が存在し、そのすべてをひっくるめて語ることはできない。だが、いくつかの共通点を抽出することはできるかもしれない。

『ペンギン・ハイウェイ』(c)2018 森見登美彦・KADOKAWA/「ペンギン・ハイウェイ」製作委員会

 まず第一に、これら3本に登場する動物はひとしなみに、人間と動物、あるいは動物とモノというような、ヒューマンとノンヒューマン、生物と無生物という二項対立的なかたちを流動的に掛けあわせるような存在として描かれていることが注目される。たとえば、『未来のミライ』では、くんちゃんの傍に現れる謎の男(吉原光夫)は飼い犬・ゆっこの仮の姿であることが暗にほのめかされているし、『カニーニとカニーノ』の主人公一家は、これも擬人化されたカニである。なかでも、とりわけ興味深いのは、『ペンギン・ハイウェイ』だろう。この作品では、主人公が好きな歯科医院に勤める歯科助手のお姉さん(蒼井優)は、コカ・コーラの缶を投げると、それがペンギンの姿に変貌してしまうのだ。このように、能動的・主体的な人間や生き物でもあれば、本来は受動的・客体的なモノとしての性質も宿す存在を、科学人類学などの分野では「アクタント(actant)」と呼んだりする。その点では、3本の作品に共通して登場する動物たちは、これらアクタントだといってよい。そして、ゆっこやペンギンと交流し、自らも甲殻類と一体化する子どもたちのイメージは、こうしたアクタントと一般的な人間の世界(それらは言い換えれば「大人の世界」だ)を結びつける媒質として機能しているといえる。

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