宮藤官九郎×石井岳龍が生み出した荒唐無稽な愉悦感 『パンク侍、斬られて候』に映る私たちの姿

 町田康の荒唐無稽な時代小説を、クドカンがシナリオ化し、石井岳龍が監督する。製作者はアクの強いこの3人をよくぞ集めたものだ。そしてその3つの固有名詞が醸す期待からまったく外すことはない。主人公のパンク侍、掛十之進には、『シャニダールの花』『ソレダケ / that’s it』に次いでこれが石井岳龍作品3度目の起用となる綾野剛だが、このカメレオン俳優は『そこのみにて光輝く』のようなリアリズムであれ、今回のようにパンク侍であれ、なんでも大丈夫だ。舞台となる田舎の弱小藩の街道筋に綾野剛がふざけたコスチュームで現れて、物乞いの男を極悪新興宗教の一味と決めつけ、いきなり人殺しする。この冒頭だけでこの映画世界がどれだけねじ曲がっているのかを、誰でも理解できることだろう。物乞いの出血がそこまで天高く噴き出さなくてもと思うが、景気のいい血糊の飛沫は、虹でも発生しそうなほどだ。

 しかしながら、この映画の荒唐無稽な愉悦感を説明することはむずかしい。特に、啞然とする後半の展開についてはまったく触れてはなるまい。何がどうなるのかは、とにかく楽しみに劇場に足を運んでいただくしかない。アメリカではすでに西部劇が衰亡して久しいが、玉石混淆とはいえ相当数の異色の剣劇アクションが更新されていく日本の時代劇というジャンルのしぶとい不滅さには、意表を突かれる思いだ。本来なら綾野剛演じる掛十之進は、名作『椿三十郎』(1962)の三船敏郎を下敷きにした名うての剣客なのだから、あざやかな腕前で弱小藩の危機を救わねばならないが、肝心の彼自身はホラ吹きのトリックスターでしかなく、はったりをかまして小金を稼ぐことにしか興味がない。そのはったりが想定外の広がりを見せたとき、不安になり、為す術なしとなる。

 綾野剛の掛十之進は物語の中心でありながら、どこか腰が引けていて、中心に君臨しようとしない。その代わりに豊川悦司と浅野忠信という2人のベテランが、石井監督の配置のもとであまりにも素晴らしい悪乗りの両サイドアタッカーを形成し、観客を異常な世界へといざなってくれるだろう。掛十之進はむしろ、私たち観客に近い存在であって、「なんだこれは」と眼前のできごとに対して最初に泡喰って見せ、観客の愉悦を扇動する役回りなのだ。また、真のゲームメイカーについてはここでは、これから見る方々に口外できるわけがない。

 豪華なキャストになんの躊躇もなく馬鹿げた役を割り当ててナンセンスをまき散らし、奇想天外なCG撮影がキッチュでアナーキーな地獄絵図を開陳してくれる。1978年のデビュー作『高校大パニック』( “数学できんが、なんで悪いとや” の印象的な予告編がテレビで流れて話題となった)から30年もの歳月を流れたが、セックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・U.K.」がついに石井岳龍映画を彩る日が到来したかと感慨深いとしか言いようがない。フルコーラスを流してくれている。以上のような素材が石井演出のもとで渾然一体となってディストピアを現出しているが、果たしてこれは空想のディストピアなのだろうか? ためしに、映画序盤の綾野剛と豊川悦司のこんなセリフに耳を澄ませていただきたい。

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