なぜ『ダンケルク』は“薄味”に感じるのか? ノーラン監督の作家性と“戦争映画”としての評価を考察

 だが果たして本作は、戦争体感映画として、他の追随を許さないような圧倒的な作品になり得ているのだろうか。『ダンケルク』を観て改めて感じるのは、ノーラン監督がけして万能型の監督ではないという事実だ。例えば、スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』のノルマンディー上陸作戦、『ブリッジ・オブ・スパイ』における空中での撃墜シーンは、史実の映像化作品としては不謹慎だと思えてしまうほど、よりアイディアやユーモアがふんだんに盛り込まれ、娯楽として楽しめるものになっている。それでいて、戦闘の臨場感や兵士の主観によるおそろしさや悲惨さが抜け落ちているわけではない。

 本作は前述したように「本物志向」という作家性に貫かれているのは確かだ。だが一方で、過去作にあったような、シナリオとしての難解さはほとんどない。『メメント』や『インセプション』、『インターステラー』などに代表される、思いついたとしても誰もが途中で投げ出してしまう、複雑な内容をひとつひとつ丁寧に描いていくという、真面目で粘着質な作家性は、前述したような時間の操作以外では発揮されているようには思えない。今回の描写は丹念ではあるが複雑ではないのだ。そのような自らの作家性の片側を封印した状態では、作家としての圧倒的な印象を作品に与えるのは難しいように感じる。本作がなんとなく薄味に感じるというのは、それが理由であろう。

 また、本作が主観性という意味において一歩引いているように思えるのは、兵士たちが作品のなかで“象徴的”な存在として描かれているためだろう。ノーラン監督の過去作『ダークナイト』のバットマンやジョーカーが、生身の人間というよりは「概念」として表現されていたように。『ダンケルク』の画面に登場する、人や物、風景には曖昧なものはなく、宗教的な絵画作品のように、象徴的、記号的な意味がそれぞれに与えられているように見える。画面全体が、意味、意味、意味で埋め尽くされているのだ。敵の攻撃ではなく階段から転げ落ちて死んでいく若者の描写でさえも、「死とは無意味に訪れるものだ」という哲学的な意味が与えられている。

 全てに意味を与えコントロールしようという重厚な絵画的表現こそがノーラン監督の持ち味であることは疑いようもない。だが、それは臨場感や生身の実感、つまり「体感」とは対極にある表現である。『ダンケルク』は、それを一つの流れのなかで両立させようとしている。しかし、それはやはり難しい試みだったのではないだろうか。当時イギリスの首相に就任したウィンストン・チャーチルが、「陸海空において、神が我々に与えた全ての力を用いて戦う」、「決して、諦めるな」と演説のなかで述べているように、本作はそのように立派な「ダンケルク・スピリット」そのものを映像化しているように思える。そしてそれは、一兵士の個人的な「体験」というより「概念」に近いものであるということは、はっきりと意識しておかなければと思う。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『ダンケルク』
全国公開中
監督・脚本・製作:クリストファー·ノーラン
出演:フィオン・ホワイトヘッド、ハリー・スタイルズ、ケネス・ブラナー、キリアン・マーフィー、マーク・ライランス、トム・ハーディほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED.
公式サイト:dunkirk.jp

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