荻野洋一の『エリザのために』評:クリスティアン・ムンジウの映画とは“負ける映画”である

 娘のエリザ役を演じた女優のマリア・ドラグシがインタビューで語った、次の言葉がヒントを与えてくれている。

「父はルーマニアからの移民で東ドイツに行きました。母はドイツ人で、ドイツに生まれ育った人です。自分がドイツ人なのかルーマニア人なのかははっきりとは決められないです。ルーマニアのほうが家族のつながりが強いというか、汚職もそんな土壌から出てきているのですが、“私があなたを助けるから、あなたは私を助ける”というような関係があるんです。人々が頼りあって生きている。人々の絆は強まるけれど、逆にあなたの助けはいらないと断ることができないというか……」

 

 人間関係の濃密さが汚職の土壌になっているという彼女の証言が間違っていないとすれば、これは根が深いだろう。映画それじたいが汚職や不正を告発しながら、同時に、それらに手を染める当事者たちにどことなく同情的な視線をむけるという矛盾を同居させてしまう。

 マリア・ドラグシは続ける。

「昨晩、父と一緒にこの映画を見たのですが、父は自分も映画の中の父親がやったことを自分もやるに違いない、と言ったのです。世界の誰もが共感できる物語なのだと思います。父親がなぜあんなことをするのか、誰もが理解できると思います」

 それにしても、私たち観客はそうしたズルズルベッタリな同情論にとどまろうとは思わないだろう。ほんとうに突破口はないのか? しかし、作者はそんな突破口はない、と画面全体で全否定し続けている。あらゆる行動が裏目に出ても、地獄絵図の様相を呈しても、ウルトラCは、ない。彼が最後にできることは、放置しかないようだ。しかしそれは責任を放棄してしまったそれではない。進退窮まったあとに、肝心かなめの娘がおずおずと打ってくる次の一手を、信頼と容認をもって受け止めてみること。支配権を放棄し、娘の主体的な一手に希望を(嘘でもいいから)見出すこと。

 そして作品そのものも、アクロバットもウルトラCもないリアリズムの陥穽(かんせい)からのいっきの突破口を夢見るのではなく、愚直にカメラの眼とマイクの耳の力に全的な信頼を置きつつ、いま生起しつつあるカメラ前の現実を甘受するしかない。そういう意味では、クリスティアン・ムンジウの映画とは、負ける映画である。打ち砕かれ、大恥を掻かされ、進退窮まり、それでもカメラは回り、マイクは彼(彼女)の荒い吐息を録音し続けている。

 ここに現れる揃いも揃って愚かで、現実容認的で矮小な一群の人間どもを見つめ、その人間どもを甘やかすでも許すでも、断罪するでもなく、ただ見つめてあげて、彼らの破滅の滑稽さに帯同してあげて、そしてそれをカメラの眼とマイクの耳で、ちゃんと跡付けてあげる。その一瞬一瞬に、やっぱりほら、映画が自然と起ち上がってくるではないか。天才の仕事ではなくても、こうやって、しっかりと芽が出るというのを確かめることほど、私たち受け手を勇気づけることはないのではないか。

■荻野洋一
番組等映像作品の構成・演出業、映画評論家。WOWOW『リーガ・エスパニョーラ』の演出ほか、テレビ番組等を多数手がける。また、雑誌「NOBODY」「boidマガジン」「キネマ旬報」「映画芸術」「エスクァイア」「スタジオボイス」等に映画評論を寄稿。元「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」編集委員。1996年から2014年まで横浜国立大学で「映像論」講義を受け持った。現在、日本映画プロフェッショナル大賞の選考委員もつとめる。

■公開情報
『エリザのために』
全国順次公開中
監督・脚本・製作:クリスティアン・ムンジウ
出演:アドリアン・ティティエ、マリア・ドラグシ、ブラド・イバノフ、リア・ブグナル、マリナ・マノビッチ
ルーマニア・フランス・ベルギー合作/2016/128分
配給:ファインフィルムズ
(c)Mobra Films - Why Not Productions - Les Films du Fleuve – France 3 Cinéma 2016
公式サイト:http://www.finefilms.co.jp/eliza/

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