『溺れるナイフ』は究極の少女マンガ映画だーー山戸結希監督、文法を逸脱した映像表現の力

 本作でも「脱ぐ、脱がない」という問題が夏芽を悩ませるように、美しさをもって芸能界で生きる女性は、多かれ少なかれ、自分の性的な部分を大衆に差し出し、切り売りしていかなければならない。ときに自分の身体を傷つけ、生と死の綱渡りをするコウの危うさもまた、そのようなエッヂの上に立つ精神性を共有している。その生と死があやしく絡み合った世界が、二人が沈んでいく暗い海中の映像として象徴的に表現されている。しかし、彼らの特別な結びつきによる恋愛は、ある事件によって破綻を迎えてしまう。夏芽は自分の美しさを表現することに恐怖を覚えるようになり、コウは自分の無力さに打ちひしがれる。

 かつての輝きを失った夏芽は、多少ウザいキャラだが元気でへこたれない、コウとは異なる優しい魅力を持った少年、“大友”に惹かれていく。夏芽の心の動きは、彼女の塗るペディキュアの色によって繊細に表現されるが、芸能活動が再び軌道に乗ると、「遠くまで行ける」力に限界のある大友は、彼女の跳躍を鈍らせる存在となっていく。彼女を遠くまで羽ばたかせることができる相手は、やはりコウなのである。

 ここでは、常識的な範疇にとどまるような誠実さや優しさは無力だ。自分の全てを受け入れ包んでくれる男という、かつて理想とされた「王子様」像を本作は否定する。自分の道を自分で切り拓き、出来る限り遠くまで進もうとする女にふさわしいのは、死に向かって破滅しながらでも、少しでも遠くへ進もうとする男だと主張する。それこそ、本作が到達した、むき出しの「リアル」である。そして王子様を乗り越えた男は、そのリアルすらも突き抜け、ついに「神」へと昇華していく。

 

 少女マンガにおける男と女の関係性は、時代とともに変化してきた。そのリアリティは、だいぶ以前から、ライフスタイルや仕事における自己実現、直接的なセックスの表現に到達し、さらには民俗学的な視点を獲得しているものもある。本作は、その多様化した少女マンガが描いてきた世界の多くをひっくるめて、神話として描き直しているようにも見える。「相手を縛る存在でなく、相手のためになる存在になる」という恋愛の論理を突き詰めた果てにあるのが、本作のラストで叫ばれるような、神格化された究極のロマンティシズムだというのは、あまりにも感動的である。この傑作を、強い意志をもってためらわず直線的に、そして純粋な映像表現として、自分だけの手法をもって撮りあげた山戸結希という、まさに閃光のような才能に、もはや羨望と嫉妬の感情を隠すことができない。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『溺れるナイフ』
全国上映中
出演:小松菜奈、菅田将暉、重岡大毅(ジャニーズWEST)、上白石萌音、志磨遼平(ドレスコーズ)
原作:ジョージ朝倉「溺れるナイフ」(講談社「別フレKC」刊)
監督 山戸結希
脚本:井土紀州、山戸結希
音楽:坂本秀一
主題歌:「コミック・ジェネレイション」ドレスコーズ(キングレコード)
製作:「溺れるナイフ」製作委員会(ギャガ/カルチュア・エンタテインメント)
助成:文化芸術振興費補助金
企画協力・制作プロダクション:松竹撮影所
制作プロダクション:アークエンタテインメント
企画・製作幹事・配給:ギャガ
(c)ジョージ朝倉/講談社 (c)2016「溺れるナイフ」製作委員会
公式サイト:gaga.ne.jp/oboreruknife/

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