『レッドタートル ある島の物語』は"人生そのもの”を提示する 天才アニメーション作家の成熟

 「このスタッフがほしい。このスタッフがいれば、俺もやれるかな」長編アニメの製作を引退したはずの宮崎駿は、本作『レッドタートル ある島の物語』を観て、プロデューサーの鈴木敏夫に、そのようにつぶやいたという。

 荒波にもまれ、ある浜辺に打ち上げられた、ひとりの男。彼は周囲を見回すため山に登ると、そこが小さな無人島であることを知る。『レッドタートル ある島の物語』は、そのように始まる。不幸中の幸いなのか、そこには、生き伸びるための最低限の自然が用意されていた。木の実を採ることができる木々、飲み水が得られる泉、魚を捕ることができる浅瀬、あらゆる建材になる竹の林、そして、蟹がたわむれる浜辺と広大な星空……。しかし、そこには人間がいない。彼は、人恋しさと自分の境遇に落胆し、誰もいない浜辺でひとり慟哭するのだった。

 都市生活には希薄な、生き物が命を奪い合い、いつでも死が隣り合わせにある自然。本作はそのような、きらめいても残酷にも見える世界が研ぎ澄まされた美しさで描かれ、静かな緊張感に包まれている。その世界のなかを、ひとりの男が走り、泳ぎ、食べ、殺し、叫び、もがき、苦悩する。それは、すべての人間の生活、人間の存在を凝縮し抽象化した姿のように見える。

 

 マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。この、ちょっと舌を噛んでしまいそうな名前の人物が、これまで、きわめて質の高い短編のアート・アニメーションを製作してきた、オランダを代表するアニメーション作家だ。なかでも、2001年のアカデミー賞短編アニメーション部門賞をはじめ、世界で多くの賞を獲得した『岸辺のふたり』("Father and Daughter")は、人間の情熱や、父と娘の関係が雄大な時間の流れと繊細な描写によって紡がれていく、イジー・トルンカやユーリ・ノルシュテインら大巨匠の作品と比べても遜色のない、アニメーション史に輝く真の傑作と呼ぶに相応しい作品だった。たった8分という短さにもかかわらず、あまりに情感を揺さぶられるこの作品は、監督の過去の短編とともに日本で2004年に劇場公開されるという異例の事態まで引き起こした。

 スタジオジブリは今まで、自社で作品を制作しながら、同時に海外の優れたアニメーション作品を紹介し、国内の劇場で上映するような活動も行ってきた。そのおかげで我々日本の観客は、ミッシェル・オスロ監督の『キリクと魔女』や『アズールとアスマール』、シルヴァン・ショメ監督の『ベルヴィル・ランデブー』や『イリュージョニスト』、アレクサンドル・ペトロフ監督の『春のめざめ』、イグナシオ・フェレーラス監督の『しわ』、そして高畑勲監督や宮崎駿監督に決定的な影響を与えた、『雪の女王』と『王と鳥』という珠玉の名作をスクリーンで、またヴィデオによって観る機会を得ている。

 

 これらの作品に共通するのは、優れた世界観、社会観、人生観が備わっているという点であり、人間の本質を正面から写し取っているという点だ。これから20年後、100年後、そしてその先も、本当にアニメーション作品が後世まで残るとするならば、このような作品だろう。そのなかに、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』や、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』も名を連ねるはずである。このような真の傑作と呼べるような作品に必要なのは、作家としての成熟と信念に他ならない。

 そして、あまりに見事な『岸辺のふたり』を完成させたマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督もまた、そのような作家であることは間違いない。2006年に作られた『紅茶の香り』("The Aroma of Tea")は、(タイトルから想像すると、紅茶の香り成分の粒子なのか)何の説明もなくただのドット(点)が主人公となっており、それが抽象的な風景のなかを延々と動き回るというだけの作品だが、そこには、複雑なドラマが描かれた作品などよりも、はるかに情感を帯び、人生の真実までをも映し出されているように感じるのである。これは紛れもない天才の仕事だ。

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