映画『怒り』は“信じること”の困難を描くーー宮崎あおいの慟哭が意味するもの

 映画『怒り』は、“慟哭”の映画だ。“慟哭”とは、声をあげて激しく嘆き泣くこと。しかし、その“慟哭”が、決して“怒り”から来るものではないところが、この映画のやっかいなところであり、少なからず誤解を生むところであるように思う。この映画の本質的なテーマは、“怒り”ではない。筆者には、そのように感じられた。確かに、理不尽な“怒り”に魂を焼かれた人物は登場する。けれども、彼の“怒り”はあまりにも陳腐であり、筆者の心を何ら打つことはなかった。むしろ、そんな理不尽な“怒り”が蔓延する、この世界で、誰かを心の底から“信じる”とは、一体どういうことなのか。それこそが、この映画の本当のテーマなのではないだろうか。

 映画は、凄惨な殺人現場によって幕を開ける。整然と家屋が立ち並ぶ、郊外の住宅地にある一軒家。そこには、2つの死体があり、食い散らかされた食べ物があり、凶器の包丁があり……そして、壁に血で描かれた“怒”という文字が画面いっぱいに映し出される。ある種の異常性を感じさせる凄惨な犯行現場だ。そして、一年後の夏。容疑者は逮捕されることなく、依然として逃走を続けている。そんな折り、千葉、東京、沖縄の3箇所に、容疑者と同年代で同じ背格好をした素性の知れない男が、それぞれ現れる。千葉の漁協で働く洋平(渡辺謙)の前に現れ、漁協で働くようになる田代(松山ケンイチ)。東京で働くエリートサラリーマン優馬(妻夫木聡)が新宿のサウナで出会い、そのまま家に連れて帰ってしまった直人(綾野剛)。そして、沖縄の離島に引っ越して来たばかりの泉(広瀬すず)が、誰も住んでないはずの無人島で遭遇した田中(森山未來)という男。

 衝動的な家出を繰り返し、東京に行っては身も心もボロボロになって千葉に戻って来る、洋平の娘・愛子(宮崎あおい)は、他人の噂話が大好きで、自分に好奇の目を向けて来る地元の人々のなかにあって、唯一自分の過去を問わず、自然体で向き合ってくれる田代に、いつしか思いを寄せてゆく。虚飾にまみれた華やかな生活を送る一方、ホスピスに入院中の母親のことが気掛かりな優馬は、自分の見た目や職業に頓着することなく、ただ黙って傍にいてくれる直人の優しさに、不思議な安らぎを覚え始めてゆく。そして、男にだらしない母のせいで何度も引っ越しを余儀なくされ、心の奥深くにやるせない孤独を抱えている泉は、自ら孤独であることを選び取り、たくましく生きている田中に、他の人とは異なる親しみを感じるのだった。

 田代、直人、田中……いずれも素性の知れないこの3人のなかの誰が一体、逃走中の容疑者なのだろうか? 千葉、東京、沖縄……決して絡み合うことのない3つの物語を並行して描きながら、時折挿入されるニュース映像と、そこに映し出される犯人の写真、さらにはフラッシュバックする犯行時の様子が、それぞれの場所で生きる男たちへの疑惑を、次第に観る者のなかに募らせてゆく。無論、それは洋平、愛子、そして優馬といった登場人物たちにとっても同じである。

 だがその前に、この映画は“まなざし”の映画でもあるのだった。田代の横に腰かけ、弁当のおかずを分け与えながら、チラリと田代に向ける愛子の“まなざし”。そんな仲睦まじい2人の様子を、どこか不安気な表情で見つめる洋平の“まなざし”。あるいは、コンビニ袋を提げて坂道を登る直人を、遠くから見つめる優馬の“まなざし”。人は愛する者を見つめるとき、こんな目をしているのか。そんな驚きと感動が、そこには存在する。

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