宮台真司の月刊映画時評 第7回

宮台真司の『二重生活』評:あり得たかもしれない演出を考えることで、普遍的寓意へと到達できる

誰もが「常に既に」意識と無意識の二重生活を送る

 いずれにせよ教授は明白にキーパーソン。途中から彼の主観視座に移ってしまっても良かったと思う程です。女子学生の日常的リアリティから始まり、尾行を通じて崩れる迄は彼女の主観視座。そこで教授の回顧的主観にシフト、彼が<なりすまし>によって回復する迄は彼の主観視座。

 以上が三幕構成の「序・破」とすると、教授から女子学生へと尾行が継承されたように、教授から女子学生へと<なりすまし>が継承されるといった「急=フィニッシュ」も、反復の物語として美しいし、より説得的だったと思います。本作のままだと、女子学生の回復の理由が非説得的なのです。

 日常をマジガチのリアリティで生きる者が、匿名者の群れも親しき者達も「書割の中の影絵」であるリアルに気付いて、身を持ち崩した後、渾沌経験の中から、<なりすまし>によって成り立つ社会の奇蹟性(ありそうもなさ)に気付き、むしろ以前に増して社会とパーソンにコミットするーー。

 こうした説話論的構造は、連載でも述べた通り、日本映画の伝統的な型でもあります。今村昌平監督『赤い殺意』(1964)では、暴行された主婦が、渾沌の中で暴行犯との関係を逆転させた挙句、最後に主婦の日常に戻ります。外見は何も変わらず、誰も気付かないが、彼女は高次化しています。

 実際『赤い殺意』と比較すると『二重生活』の問題点が明らかになりますが、それはともかく、「<なりすまし>で成り立つ<ウソ社会>への気付きが与える失意の渾沌を経て、自覚的<なりすまし>を通じた回復へ」という伝統モチーフは、現実社会を批評的に観察するヒントにもなります。

 例えば[リアリティ(離陸面)⇒リアリティ反転(渾沌経験)⇒リアリティの高次な再反転(着陸面)]を経由した人間は、浅ましきウヨ豚にはならないでしょう。社会の中で言語的に構成された[敵/味方]の如きは、所詮<なりすまし>ゲームの上に成り立つファンタズムに過ぎないからです。

 無論、妻(夫)・子供・恋人・友など命を懸けて守りたい存在がいる以上、<なりすまし>を受け容れて大規模定住社会を生き、一個の一貫したパーソンとして生きる他ありません。それには言語プログラムに服する他ありませんが、言語プログラムへの従属は意識と無意識の二重性を生みます。

 映画に描かれたような二重生活を生きるか否かに拘らず、言語プログラムによって支えられた大規模定住社会を生きる人は、「常に既に」意識と無意識の二重生活を送ります。娼婦を虐げる人々を前に「罪なき者のみ石を投げよ」(ヨハネ8:7)と告げたイエスは、その事実に気付いていました。

 読者の一部は、僕の鍵概念が<ウソ社会>から<クソ社会>に変化した事実に気付いているはず。<ウソ社会>という言葉は、真実社会や本来社会の存在を想定させますが、それらは存在しません。定住社会はそもそも<なりすまし>によって支えられた<クソ社会>としてしかあり得ないのです。

 映画『二重生活』のモチーフには本来、そこまでの普遍的寓話性があります。幾つかの欠点を見るにつけても、尾行体験のエキスパートである僕に相談してくれれば良かったのになどと残念に思ったりしますが(笑)、いずれにせよ、非常に潜在的可能性のある素材を扱っていると言えます。

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。

■公開情報
『二重生活』
公開中
監督・脚本:岸善幸
音楽:岩代太郎
原作:小池真理子「二重生活」(角川文庫刊)
出演:門脇麦、長谷川博己、菅田将暉、河井青葉、篠原ゆき子、西田尚美、烏丸せつこ、リリー・フランキー
2015年/日本/カラー/126分/16:9/デジタル5.1ch/R15+
製作・配給:スターサンズ
配給協力:コピアポア・フィルム
(c)2015『二重生活』フィルムバートナーズ
公式サイト:nijuuseikatsu.jp

関連記事