嘘をつくのは誰なのか?ーー現役弁護士が『FAKE』における著作権法上の論点を分析

 監督が重視するのは、佐村河内氏とメディアの関係だ。

 作中のインタビューで「あの事件以来、4、5回しか外に出ていない」と本人が語るように、佐村河内氏はマンションからほとんど出ない。カメラは基本的に自宅内にいる佐村河内夫妻と猫の姿を追い続ける。

 そんな単調な生活に起こるイベントとして作中で取り上げられているのは、フジテレビのスタッフが番組への出演依頼に来る場面、佐村河内氏が出演を断った代わりに新垣氏が出演することになったその番組を佐村河内氏が見る場面、また別のメディアがインタビュー依頼に来る場面などだ。

 実際に佐村河内印の商品を売ってしまったレコード会社、佐村河内氏の音楽を通用させたクラシック音楽関係者、CDを買ったリスナー、佐村河内氏を信じ家族ぐるみの付き合いをしていたという義手のバイオリスト少女など、この事件には多数の関係者がいるし、佐村河内氏と新垣氏の共犯関係は20年近くに及んだのだから、メディア業界以外の各方面にも相応に影響があったはずなのだが、それらはこの作品には一切映らない。佐村河内氏の郷里の父親も登場するが、そこでも語られるのはあくまで「メディアの報道が父親の生活に与えた影響」であって、佐村河内氏と父親の関係についてはよく分からないままだ。

 これは監督の問題意識の中心が「佐村河内氏とメディアの関わり」、もしくは「メディアに映った佐村河内氏」にあることを示している。

 繰り返すが、その視点の選択自体はまさに作家性の問題であり、良いも悪いもない。筆者は弁護士として法律問題が気にかかったが、監督はテレビ業界出身の映像作家としてメディアとの関係が気にかかった。それだけのことかもしれない。

 「メディアとの関係」に視点を絞った結果取りこぼしたものがあることに、この作品は自覚的だ。その証拠となる場面がある。佐村河内氏の演技じみた自己弁護と、それを正面からは否定しない国内メディアと、氏を意図的に泳がせるかのような監督の姿勢が作り出した予定調和的な雰囲気が、空気を読まない外国メディアの取材によってあっさり崩壊し、佐村河内宅に緊張が走る場面をカメラはきっちり捉え、その映像が重要な転換点として使用されているのだ。

 この場面を機に、本作は急展開を迎え、「衝撃のラスト12分間」になだれ込んでいく。

 「衝撃のラスト12分」は、森達也監督が佐村河内氏の単調な生活に力づくで介入することで始まり、最終的に観客に大きな謎を投げかけて幕を閉じる。その謎の真相はひとまず措いておく。指摘しておきたいのは、その謎の真相について観客よりも制作者、つまり現場で取材した森達也監督のほうが良く知っているとしか思えない、ということだ。知っていて敢えて隠していると言ったら言い過ぎかもしれないが、少なくとも、敢えて触れないようにしていることがある。本作を見終わった後に残る謎は、出来ることを全て尽くした後にそれでも残る未解決点というより、監督の不作為が生んだ「語り残し」だ。もっと近づけばあるいは「謎」自体存在しないことが判明してしまうかもしれない地点で、意図的に踏みとどまって、「謎」を生き残らせている。

 その真相を観客よりも詳しく、具体的に知り得る、少なくとも近づき得る立場にありながら、その立場を利用して少しでも真相に近づき、その結果を観客と共有しようとはしていない。それだけでなく、情報を共有しないことの結果生まれた制作者と観客の間の情報格差を、「謎」として物語の動力に利用しているのだ。

 森達也監督には『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著作がある。しかし、少なくともこの映画に関する限り、嘘をついているのは「ドキュメンタリー」というジャンル自体ではなく、森達也という1人の作家ではないか。

 佐村河内氏のゴーストライター問題が特異なのは、彼がクラシック音楽の「作家」になりたがった点だ。問題発覚後、「音楽業界でも出版業界でもゴーストライターという存在自体は決して珍しくない」という意見はよく聞かれたし、実際その通りなのだろう。しかし、世の多くのゴーストライティングが最終的には経済的な動機で説明できるのに対し、佐村河内氏は経済的利益よりもまず、「作家」という存在になろうとした印象がある。しかも、人類を代表して苦悩の闇の中から芸術を生み出す、古典的なイメージにおけるベートーヴェンのような「作家」に。その途方もない大時代的な欲望こそが「佐村河内守という作家」をクラシック業界では異例の成功に導き、またゴーストライター問題発覚後に公衆の耳目を惹きつけ、またこのような映画が製作されることになった大きな理由になったように、筆者には思える。

 かたや「楽聖」になろうとした作曲家と、かたや自身の飾らない姿を無防備にさらす手持ちカメラ片手のドキュメンタリー作家。一見全然似ていない2人だが、「作家」という存在を受け手と作品自体に対し特権的な地位に置くという意味で、本作における森達也監督の創作姿勢は佐村河内氏のそれととても良く似ている。

 そしてそこで忘れてはならないのは、佐村河内氏に「作家」としての実態はあったのか、という根本の問いだ。この作品の根底には、「そこは敢えて白黒つけなくても良い」という価値判断があるように思える。確かに、世の中には白黒つけないほうが良いこともあるだろう。そもそも、物事に白黒つけることは法律や倫理の役割であって、映画の役割ではないとも言える。

 しかし、佐村河内氏の「作家」としての実態の存在に期待して金を払った人が存在し、その期待を保護する法律もあることを考えると、白黒つけるところまでは行かなくとも、もう少し先まで描かれるべきだったのではないか。

■小杉俊介
弁護士、ライター。音楽雑誌の編集、出版営業を経て弁護士に。

■公開情報
『FAKE』
公開中
監督:森達也
出演:佐村河内守
(c)2016「Fake」製作委員会
公式サイト:http://www.fakemovie.jp

関連記事