シェイクスピア作品は“娯楽映画”の原点ーー現代的アプローチで描く『マクベス』の特徴

 1999年、オーストラリアの田舎町で11もの損壊した変死体が発見された。犯行グループはやがて逮捕されたが、捕まった首謀者の供述によると、彼は小児性愛者や同性愛者を深く憎悪しており、そのような人々を次々に監禁・拷問し殺害したのだという。被害者のなかに10代の少年も複数含まれる、この「オーストラリア史上最悪の連続殺人」が、今回考察する映画『マクベス』に繋がっていると言ったら、意外に思うだろうか。

 

 この事件は、『スノータウン』というタイトルで、本作『マクベス』のジャスティン・カーゼル監督によって映画化されている。犯人の内面や動機をセリフなどで説明せず、田舎町の閉鎖性や犯人の生活を丹念に描き、また拷問や殺害の様子を克明に再現することによって、観客に異常な世界を体感させる、ストイックかつリアリスティックな手法は高く評価され、カンヌ国際映画祭で特別審査員賞を受賞した。連続殺人の首謀者は、田舎町のある少年にも殺人を手伝わせようとする。はじめて殺害された遺体を目の当たりにした少年が、思わず戸外へ走り出し嘔吐してしまうシーンは印象的だ。

 最初の長編作である低予算映画『スノータウン』が注目された、商業大作監督としてはまだ未知数のカーゼル監督に、英国の大劇作家ウィリアム・シェイクスピアによる悲劇の代表的作品「マクベス」の実写映画という大作企画が舞い込んだのは意外だ。将軍マクベスが、魔女の予言に従って主君を暗殺し王になるという、この有名な演劇は、舞台劇の定番であることはもちろん、今までにオーソン・ウェルズ監督やロマン・ポランスキー監督、また黒澤明監督による日本の時代劇への大胆な翻案など、過去に数々の名匠によって映画化されてきた。大物監督でも二の足を踏むような題材にカーゼル監督が抜擢された理由は、彼がオーストラリアの演劇界でキャリアを積んでいたこと、そして彼の現代的な感性が、古典劇に新しい風を吹き込むことを期待されてのことだろう。

 

 そうして完成した、本作『マクベス』は、マイケル・ファスベンダー、マリオン・コティヤールをはじめとする豪華キャストの熱演によって、風格を感じる悲劇大作となっていた。とくに作品の舞台となるスコットランドを中心とした寂寥感の漂うロケーションが素晴らしい。だが目論見どおり、物語を描く上でのアプローチは非常に独特で現代的なものとなっている。注目すべきは、原作に忠実なセリフの合間に描かれる「言葉のない」部分にこそある。例えば、前述した『スノータウン』での殺人現場で嘔吐する場面とそっくり似た箇所が、本作の王殺しの現場のシーンでも加えられているのだ。

 「マクベス」で描かれる時代は、拷問刑や魔女狩りなどが横行する中世である。マクベスの王殺しは罪に違いないが、文化的背景を勘案すると、奇異に思うほどの凶行ではない。だが本作では非常に繊細に、城にこもり精神をすり減らしていくマクベスを、現在の刑法で死刑を宣告された囚人のように描き、また犯行に関わる間接的な動機として、自分の子供を亡くしているという描写が挿入されるなど、実際の殺人事件を映画化した『スノータウン』とほぼ同じアプローチで、現代的な犯罪映画として精神分析的にシェイクスピア作品を解釈しているのだ。

 マクベスに予言を与える魔女や、犯行に加担する妻を、かつてのように「男を惑わせる悪女」として強調されていないというのも、また現代的だ。男を女が堕落させるという物語は、シェイクスピアのはるか以前、英国文学の源流である叙事詩「ベオウルフ」から続くひとつの典型である。女性を男に付属する存在として描かず、マクベス夫人を、マクベスと同等に苦悩させ、彼女の精神の行方をはっきりと描き決着させることで、このような古典的呪縛から「マクベス」という題材を解放するという試みも、本作の特徴である。

 

 それにしても驚かされるのは、このような現代的解釈までをも許してしまうシェイクスピア作品の柔軟性である。彼の演劇が時代を超えて愛され続けている理由は、おそらく血みどろの暴力、性愛、権力欲など、人間の根源的な衝動を抽象化して描いているからだろう。シェイクスピア演劇を独自の解釈で舞台演出し、本場ロンドン公演を成功させた、故・蜷川幸雄は、「シェイクスピア演劇は教養ではなく大衆娯楽だ」と述べていた。このようなシェイクスピア作品の本質的魅力は、現代の商業的な映画作品と全く重なるものである。

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