ニコラス・ケイジが『グランド・ジョー』で演じる、アメリカ南部の狂気
ニコラス・ケイジが演じる、ジョーの「狂気」の理由
ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』という、南部を舞台にした映画がある。主人公・ルークは、軍人として数々の武勲を立ててきた国家の英雄でありながら、何故か街のパーキングメーターを故意に破壊し、投獄される。些細な罪だが、彼は刑務所の中でも、刑務官や先輩の囚人たちに媚びへつらうことなく、何度も何度も脱獄を試みる。ストーリーのなかでは、彼の不可解な行動の理由ははっきりと示されないが、作品内では直接描かれない、彼の戦争体験がその心理に影響しているだろうことは読み取れる。ルークの反抗的行動の意味は、おそらく、戦争という名目で自分に殺人をさせた国家、社会への反発である。刑務所長が支配する南部の刑務所という場所が、アメリカ政府と、利用され管理される国民を暗示しているのだ。
そのような構図は、本作におけるジョーの、何度も警察に逮捕されようとする自暴自棄な行動ともリンクしているように感じられる。ジョーを狂わせるものは、南北戦争後、世代を超えて背負わされてきた十字架であり、搾取され続けることを宿命づけられた、出口のない圧迫感であろう。階級や貧富の差によってがんじがらめになっている保守的な風土と、それを受け入れてしまう人々や自分への苛立ちが、ジョーの狂気の源泉なのである。それは、本作のニコラス・ケイジの狂気の演技に漂う、『リービング・ラスベガス』にも通じる悲劇的な印象を与える理由でもあるだろう。
確かに南部が、思想や経済的な面で、不当に傷つけられ、北部の企業などから搾取され続けてきたということは事実だろう。そのツケを、貧困者や弱者ばかりが支払い続けるというのも酷な話である。だが、その暴力性は、さらに南部の女性たちや子供たちなど、さらなる弱者に向けられていくことも、本作は描いている。この暴力の連鎖は、全ての人々がそれぞれの立場で断ち切る努力をするべきであろう。そして本作のジョーは、自分の中の毒を用いて木を枯らすように、暴力の連鎖、貧困の連鎖、悪徳の連鎖を断ち切ろうとする。それは、自分自身の贖罪でもある。
本作の脚本を読んだニコラス・ケイジは、すぐに出演のオファーを受けたという。南部の作家ラリー・ブラウンによって書かれた、原作に宿る優れた文学性は、ニコラスの演技者としての欲望に火をつけただろうことは、想像に難くない。本作の冒頭は、少年の父親の横顔を写したカットから始まる。その対となる最後のシーンは、同じような構図の、少年の横顔である。その類似は、南部の将来の不安を感じさせる。しかし、そこから移動するカメラが、正反対の意味を持つ情景を写すことで、新しい南部への希望を暗示する。その映画的な演出によって、本作は映画化作品としての存在理由を確かにしているといえるだろう。
■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter/映画批評サイト
■リリース情報
『グランド・ジョー』DVD
3月18日(金)リリース(TSUTAYA先行レンタル))
監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン
出演:ニコラス・ケイジ 、タイ・シェリダン、ゲイリー・プールター、ロニー・ジーン・ブレヴィンズ
発売元:カルチュア・パブリッシャーズ
セル販売元:TCエンタテインメント
(c)Joe Ransom, LLC
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