門間雄介の「日本映画を更新する人たち」 第1回
「これからの才能があちこちで産声をあげている」門間雄介が“日本映画の新世代”を探る連載開始
1月8日、アップリンクの東京上映最終日に観た『孤高の遠吠』は、噂にたがわず、とんでもなくでたらめで、とんでもなく面白い映画だった。「ははは、マジかよ」。エンドロールで意外にも福山雅治「HELLO」のカバー・バージョンが流れだした時、終始ぶつぶつ呟いていた隣席の客が、聞こえるか聞こえないかくらいの声音で言った。まさにそうだ。『孤高の遠吠』は一作まるごと「ははは、マジかよ」な作品だった。
カナザワ映画祭2015で上映され、静岡県富士宮市のガチな不良たちを起用して話題となったこの問題作は、現在25歳の小林勇貴監督によるバイオレンス群像劇だ。撮影中に出演者が失踪したり、逮捕されたり、あるいはゲリラ撮影のバイク走行シーンがおそらくイリーガルだったり、そういった話題性の点だけでも十分に観る価値のある作品だが、感心したのはストーリーが何より魅力的だったことだ。合計前科数数十犯の凶悪な猛者が次々とあらわれ、不良たちによる抗争は激化し、となりの富士市まで拡大していく。ヤンキー漫画10巻分を一篇に凝縮したような内容を、セリフが録れていないなどの技術的な不備はお構いなしに、この映画は一気に語り倒す。
思い出したのは『定本 映画術』のなかでアルフレッド・ヒッチコックがフランソワ・トリュフォーに説いたストーリーテリングの基本だ。“子どもたちにお話を聞かせていると、こう尋ねてくるだろう、「ねえ、次はどうなるの?」って”。ヒッチコックは主にサスペンスの手法として、ストーリーはそのような対話を通して語られるべきだと主張している。でもそれはジャンルを問わず、娯楽作において観る人を惹きつけるために、作り手が心の片隅にとどめておくべきことだ。きっと『孤高の遠吠』を観る人も同じようなことを感じるだろう。ねえ、次はどうなるの? ははは、マジかよ。
わずか5万円強という超低予算でこの作品を作りあげた小林勇貴をはじめ、目を配れば、これからの才能があちこちで産声をあげている。大学の卒業制作作品ながら堂々とした完成度を誇った竹内里紗監督の『みちていく』や二宮健監督の『SLUM-POLIS』は、昨年観た映画のなかでもこれはと思うものだった。こういった才能のほとばしりを観て、数億円かけてこんな出来かというような映画を作ってしまう監督たちは何を思うんだろう? あの人とか、あの人とか。
映画の出来不出来を監督の力量だけに起因させる作家論は、いまや一種のファンタジーかもしれない。映画の制作には多くの人の思索と思惑が絡みあい、とりわけ予算規模が大きくなるほど、その方向性は関係者のコミュニケーションによって決定づけられるからだ。でも監督でなければできないことが紛れもなくあって、それは映画の出来不出来を大きく左右する。例えば役者を撮影現場でどう演出するか。その魅力をどのように引きだすか。そういったことは監督の匙加減ひとつでいかようにでもなる。